貴いもの

ビジュアルディクショナリーの髭剃りのページのカタカナを娘が「ギヤ」と読んで、俺が「Gear」と英語で読んだ。俺は、いや、何かを書き始めるために今さっき起きたことから書き始めてみたが10:35でもう眠い。風邪を引いている。鼻水が固くて黄色い。中国に行きたい。黄色は皇帝の色。鼻水が止まらない。鼻の下が乾燥して肌が荒れる。花粉症ですかとよく聞かれる。花粉症どころかすべてのアレルギー値がMAXなんだよと一瞬過ぎるが急に不幸自慢される準備は向こうはないはずなのでただ俺は、花粉症だと思います。とか、アレルギーの薬を飲んでますだとか、言う。花粉症ごときで辛いとか言ってんじゃねえとかあるけどアレルギーの薬、フェキソフェナジンとか無しで普通に花粉症を直で受けたら辛いんだろう。ひとのくるしみはわからない。この苦しみは誰にもわからない。おれと同じ身の上になったものでなければと李徴も言う。その気持ちでおれはまわりに壁を作っていたが、当然それは他人にも言えること。他人の苦しみはおれにはわからない。職場の、単純作業をする中年女性たち、休憩時間も身を寄せ合って、たわいもないことを明るくしゃべっている。そのうちの何人がその場を本当に楽しいと思っているのだろう。ただ私たちは家庭のために働きつつ、楽しくおしゃべりできていればいいのよという体を保つことが必要だからやっているのか、単純に楽しく過ごしているのか、わからない。おれにはあのように、楽しそうな場で自分も楽しくいることはできない。複数人の、職場の人間の輪の中で、楽しくもなんともない会話を楽しい感じでやる能力が欠けている。20代中盤ではじめて社会に触れたときは、この能力が欠けていることがそのまま社会不適合を表すのだろ思っていた。なんとなく楽しく笑って冗談をやり過ごし、そして冗談を自分も言い笑う能力。それが必須だと。しかしそれは弱者だから必要だったのかもしれない。今も弱者だが、最底辺ではない。笑わなくてよいときに笑わないことを選択しても困らない。いや、実のところもう少し愛想笑いをしてもよいとは思う。思うが、必須ではない。自分の楽さと社会的に許される範囲が大きく乖離していない。以前はここが大きく乖離していたから、素のままで空気の読めないやつになるか、自分を殺すかの二択だった。それが辛かった。今も楽ではない。しかし、大変さのフェーズが変わった。昔の、若手としての可愛らしさが求められるフェーズのほうがとてもつらかった。つまらない冗談を言い、それを笑うことを強制してくる要素は今の環境では比較的弱い。だからこそ、同じ職場のおばさんたちがその空気感を持って休み時間を過ごしているのを見ると、不快感がありつつ、自分がそこにいなくて済んでいるという優越感?のようなものがある。あの場で本当に皆が楽しんでいるように思えない。あそこにいる6,7人のうち、苦しみながら楽しい感じで会話しているひとが実は多数派なのかもしれないとすら思う。そういう悲しさが、おばさんたちだけではなく、男性陣にもある。おれはそうなりたくない。なりたくないが、なりつつあるんだろう。染まるとはそういうことだ。まわりを見下して、蔑んで、嫌いなものばかりになっていく。だれもが、嫌いな人間が多いわけではないという。おれは嫌いな人間ばかりである。おれが蔑んでいる人間からおれは蔑まれているのかもしれない。もしそうだとして、それは気にする必要はないと思う。自分の人生と自分の家族の人生と、長い歴史と遠い未来を考えたときに、あまりに些末な問題。しかし、可能性として見ておく必要がある。おれの人間嫌いは加速して、おれの嫌われ方も加速する。そのようにして、面倒な爺になるだろう。そのとき、わずかな見いだせる人には、おれの中の貴いものを見いだせるくらいにはおれの中が濁っていなければそれでいいと思う。