怒り

殺す、という気持ちが強まりすぎて、通勤中なぜか勃起していた25,6歳のころを思い出す。今は娘が癒しだから、職場のババアを殺したいと思ったとき、その気持ちを浄化させることができている。ああ、単に無力だったあの頃、本当につらかった。世界のカス人間の比率は実のところどの環境でも変わらない。そこに加えて自分が無力であると辛さが倍増する。おれにとって20代半ばが特に辛かった。スキルもなく、経験もなく、それでいて文化的な知識だけあるから、年上の無学な人をなめて、それが伝わって嫌われて、かといって仕事はなにもできず、怒りだけが募った。今でも大きくは変わっていない。ただ比較的、スキルと経験が上乗せされて、気持ちは楽になった。ただ、仕事ができないやつが偉そうなのは嫌われるけど、偉そうだとどちらにしろ嫌われるのであった。嫌われてるのかわからないけど、壁はある。ただ、責任の幅が違うのだから当たり前だ。誰のミスでも最終的におれがケツを拭かなければならないのだから、糞仕事をする爺婆に苛ついてしまうのは仕方ない。ああ、おい、ババア、おい、ジジイ、その、自分のポジションを守るために小さく息を潜めたり、または自分のせいではないと喚くのを、どうか、やめてくれ。おれは、お前らの正当性のなさを責めたりはしない。ただその分の怒りが溢れて、たわいのない会話に斜に構えたような返事をしてしまうのだ。おれは、そう、おそらく、このようなジジイとババアに毒されて、このようなジジイになり、それによって家族からも疎まれるのだろう。そのようにして無自覚なクソジジイになるだろうか。いや、おれはたぶん、自覚的なクソジジイになるだろう。カスからいつでも去れるように、スキルを身につけなければいけないと思った。その動きは正しかった。スキルにより、移動範囲が広がった。それならそのままスキルを磨く方向だろう。わかっている。おれが踏みとどまって、生きて、肉体を死なずに、精神も死なずに生きていくにはそのようなつまり方向を見据えてスキルをつけていく必要があって、それをするためにはあまり難しいことを考えないほうがいいのだ。ゆっくり歩け、たくさん水を飲め、ということではない。たくさん水を飲む、というのは、いろんな方向の本、芸術、文化、勉強をするということだと理解していた。今はたぶんそういうことをやっているべきじゃない。高校生が恋愛青春する漫画が好きだ。ただ、そのように素晴らしいコンテンツを接種したあと、現実に汚さにうんざりする。三次元で美しいものは娘だけだ。娘だけが、この三次元空間で唯一の、光輝く素晴らしいもの。わかる。簡単に転職できない狭い世界では、自分の身を守るために本能的に責任回避能力を磨いてしまう。だから、責任者に負担がかかりがちになる。主体的に動いても、責任回避能力だけを磨いたCPUたちの分の仕事をしなくていけない。主体的に動くのをやめれば、誰かがミスをしてそのケツを俺が拭かなければいけなくなる。ポジションがそうなっている。誰が悪いわけではない。構造による弊害だ。そしておれは、わからないけどおそらく、そこまでこのポジションが嫌いじゃない。バカのケツを拭きながら、それでも一人でできる仕事がよい。もっともっと自分の好きなようにできればもっと良い。もっと好きなように仕事して、もっと好きな勉強を仕事中にして、いつでも飛んでいけるようにしておくことが最適解。と書いていて、本心なのかわからなくなってきた。本当だろうか?おれは寂しがっている。本当はもっと、同じ程度の主体性を持った仲間と働きたい。そういうのはむずかしい。わかっている。前職ではまわりの熱よりおれの熱のほうが低かった。同じ熱で何かに向かうことはむずかしい。今までの人生でおれにその瞬間はあっただろうか?なかったかもしれない。だからこそ、宇宙よりも遠い場所で、小淵沢報瀬のまわりに仲間が集まるとき、泣いてしまうのだ。報瀬のキャラクターは人に何を言われても気にせずまっすぐ進む。それでもまったく気にしていないわけではなくて、笑うまわりを敵視して、そのエネルギーで生きている。そうして、日々アルバイトをして、三年前に行方不明になったお母さんへ毎日メールして、返事がこなくても毎日メールして、南極で見つけたお母さんのPCのOutlookに自分からの新着メールが何百件と溢れるとき、ちゃんと届いていたんだということ、自分がずっとメールしていたこと、そしてこのメールを誰も見ていないということ、つまり母はもういないということを理解して、今この瞬間に母が死んだかのように泣き叫ぶあのシーン、100%で泣ける。率でいくとハンターハンターのキメラアント編終盤はだいたい読み返すと7割で泣ける。宇宙よりも遠い場所Outlookのシーンは100%で泣ける。なぜ泣けるのだろうと思って書いてみたけど、それが正しい理由なんだろうか。わからない。報瀬というキャラクターに親近感と魅力を感じる。ざまあみろ、なんて気持ちより強く、殺す、という気持ちだけど、おれもまわりの多くの人に対して、殺す、とか、死ね、と感じている。そのような人間は少数派なのかもしれないけど、不健全だとは思わない。カスばかりのこの世でそのように思わずに生きていけるほうが不思議だ。でも、殺す、も死ねも、あまり好きな言葉じゃない。死ねは特に嫌いだ。死ね、は、自分の無関係で責任感がない。突き放していて嫌な感じだ。殺す、も、殺す気なんかないのに、違和感がある。殺したいという言葉もなんか弱い感じで嫌だ。何が近いんだろうか。消えろ、も違う。死ね、がやはり自分の感情には近いのかもしれない。正しい言葉を使いたい。ころす、とひらがなで書くと少しちかづくような気もするけど、わからない。怒り。怒り。怒り。怒りが多い。怒り。こんな自分がまたネットを見始めたら、怒らなくてもいいことにたくさん怒って、ケータイポチポチしてネットリンチに加わったりして、最低のカスの一員になるだろう。そう。そのようなネットのカスども、リアルのカスども、それは未来のおれであり、過去清い心を持った誰かなんだろう。一切皆苦諸行無常。このような現世の混沌と不条理を思うとき、仏教的な考えがしっくりくる。どうも西洋の宗教はその点で優しさがない。なぜか、西洋より東洋に魅力を感じる。英語をあまり頑張る気にならないのはそういうところもあると思う。もういいや、