アンガージュマン
深夜2時に起きて、なぜかA子のことを思い出した。大学生のころときどき遊びにきてくれていた、おれの想いでの中で最もふつうに可愛いA子、とのことを、ほとんど覚えていない。
娘とのラブラブな毎日も、なぜか、あまり思い出せない。膨大な写真があるから、それをフックにどうにか思い出せる日もある。ほかのほとんどは忘れている。保管しておきたい美しい思い出を忘れてしまう。
ブログを書くのも面倒なのだけど、書いておかないと忘れてしまうんだろう。A子のことなんてどうでもよいのだけど、
書く手が止まる。形を気にしているから止まる。これはいうべきではないと思うから止まる。いうべきではないことはいわない。ただ、形はあまり気にしなくていい。誤字すらも放置でいいと、ブログを始めたころ思っていた。そのくらいの気持ちで良さそうだ。スタバを、土日は毎日利用している。金が、昔に比べたらある。金を使って、健康に生きていたら、日々の中で使える時間が増えた。昔は一日時間があっても一度歯医者に行けばそれ以上予定を入れることはできなかった。そのころと比べると5倍くらいの体力がありそうだ。若いころこそ、体力と金があれば、もっと楽しかったのだけど、そういう昔を思うことばかり。おれのブログも、おれの人生も、昔を思うことばかり。このままいくのだろう。文化、芸術、物語を思い返すよりも昔を思い返すことのほうが多い。自分だけの体験のヒリツキのほうがコンテンツより楽しい、最近そう思う。音楽も、音楽そのものではなく、自分の想いでや妄想を増幅させる装置として使っている。以前なら音楽を聴いていた時間は、いまは何も流さず、ただ頭を空にしている。NO MUSIC NO LIFEではない、音楽どころか、特に何もいらない。
おれのいまの気持ちを書いたところで、いつもと同じ文章ができるだけだろう、が、定点観測?的に意味がある。どうせこれを、読み返すのはおれだけだ。おまえも読んでいるが、おまえは一度だけだろう。
社会的に役に立つことを、ふつうにちゃんとやるのは、人生スムーズにいくためには非常に効率が良い。
うんこをしているとき、安心する。今この時間はほかにどうしようもないからだ。人間は自由の刑に処されている。ブログを書くよりも、やりたいことがたくさんあるので、やめます
Fantasy Baby
ありえたかもしれない世界を夢見る気持ち。あったかもしれない快楽。もし俺が正しく積極的であったなら、もし若い時から体が健康であったなら、退廃的に生きていなければ、正しい倫理を持ち、余計な倫理がなければ、あのときマッチングアプリ全盛期であったなら、可愛い女の子と東京を歩くということが貴重な時限クエストだと知っていれば、知っていればどうだったか。おれはおれで全力を尽くしていた。おれは大学生のとき、高校のときに得られなかった青春を取り戻そうとしていたが、取り戻すのに全く遅くはなかった。ララランドのあの存在しない赤ちゃんを思う。別の世界線を夢見ること。両方の幸福を得たい。だから人は不倫をするのか。スタバで美しい女を見て、会社で可愛い子を見て、東京でいい女と触れ合って、それを思う。それを思いながらする、Anki。ちんぽを立たせながらAnkiを消化している。取り返せないものがあり、本当に自分がほしいものはそのような青春だとわかっていて、おれは、、。自分が最も欲しいものが何かわかっていない奴は、欲しいものを手に入れることが絶対にできない。キクはいつもそう考えている。おれの最も欲しいものはなんだ。左斜め45度から見るミルキーサブウェイを見る娘の顔や、正面から見るチュロスを食べる娘の顔や、真横から見るチャイルドシートに座ってはしゃぐ娘の顔や、これらは、これらが、ない世界線に生きたくはない。おれはふだんこんなことを考えていない。ふだんは思いをfast notionでDBにぶんなげて終わりだが、お盆休み最終日だからか、東京が楽しかったせいか、
自分には特別な不幸や障害があるつもりで人生序盤やってきたが、結局こういう世俗的な、凡庸な苦悩が残った。ただ、可愛い子といちゃいちゃしたいな、したかったなという気持ち。それだけだ。それだけだ、おれは。そうだ。それだけだ。
おどる夫婦 2025年5月24日 新潟公演
長澤まさみと森山未來、映画モテキのあのシーンを復習して、あまりに心を動かされて何度か声が出てしまった。この感覚、漫画モテキを読んでいる時と同じ。原作と違う話で、原作と同じ気持ちにさせてくる。こんな凄い映像化があり得るのか。大根仁のおかげが、それとも久保ミツロウか、森山未來か、長澤まさみか。ただモテキのあのシーンを見る限り、やはり長澤まさみはすごい。そこから14年経ち、妻と演劇を見た。
「映画だったらここがカーテンコールだと思う」
というキヌ(長澤まさみ)のセリフで物語は終わる。愛がないところから始まった二人に愛のようなものが芽生えて終わる。では、冒頭のシーンはいつなのか。カーテンコールのあとの世界か。二人の映画のことで冷たく言い合いになる。そこから出会った大学生のころに戻り、十年間がはじまる。結局冒頭のシーンはいつなのか。そこからさらに十年後?それともあそこだけが現実だったのか。その後はヒロヒコ(森山未來)の書いた光也(松島聡)の日記を基にした物語なのか。長澤まさみが美人なことなどわかりきっているのにあえて美人設定が入っているのはご都合主義の異世界転生モノを経験したからか。小野花梨からも内田慈からも好かれているのはハーレムものの影響か。ヒロヒコもキヌも実際よりきれい描かれているのではないか。あの10年は物語であり、演じられている。冒頭原稿を観ながらヌメっとはじまった「よろしくお願いします」や、外から椅子に座って見守る演者たちはメタ表現ともとれる。
「ギュー、グアグアー。」「楽しいこともありました。」「だんなさんとの、こどもー!」
「だって、みんな、幸せじゃなくないですか」「もっと、観客のためとかじゃなく、自分自身のために演じてほしい」
光也が忘れること、忘れていたら死んでいるのと同じ。日記を読むと、昔の自分と話している気になると光也は言っていた。光也だけではない。10年の間にあった多くの災害や事件を観客も忘れている。みんな忘れて生きている。忘れて過ぎ去る毎日は死んでいるのと同じなのだろうか。今5歳の娘の、少し前のことをおれは忘れている。娘など、もっと忘れている。覚えていたい。「どうしておとなは自分の子どものころをすっかり忘れてしまい、子どもたちにはときには悲しいことやみじめなことだってあるということを、ある日とつぜん、まったく理解出来なくなってしまうのだろう。」
「人生とは、いまこの瞬間をくるくるとダンスするように生きる、連続する刹那」「冷めたやつらの目を気にしながら踊れ」「音楽の鳴っている間はとにかく踊り続けるんだ。おいらの言ってることはわかるかい?踊るんだ。踊り続けるんだ。」
おどる夫婦、妻が聡ちゃんをまた見たいからと、明後日の長野公演も行くことになった。松本城でも行くか。
In the sunset of dissolution, everything is illuminated by the aura of nostaligia
The idea of eternal return is a mysterious one, and Nietsche has often perplexed other philosophers with it: to think that everything recurs as we once experienced it, and that the recurrence itself recurs ad infinitum! What does this mad myth signify?
Putting it negatively, the myth of eternal return states that a life which disappears once and for all, which does not return, is like a shadow, without weight, dead in advance, and whether it was horrible, beautiful, or sublime, its horror, sublimity, and beauty mean nothing. We need take no more note of it than of a war between two african kingdoms in the fourteen century, a war that altered nothing in the destiny of the workd, even if a hundred thousand blacks perished in excruciating torment.
Will the war between two African kingdoms in the fourteenth century itself be altered if it recurs again and again, in eternal return?
It will: it will become a solid mass, permanently protuberant, its inanity irreparable.
If the Frenth revolution were to recur eternally, French historians would be less proud of Robespierre. But because they deal with something that will not return, the bloody years of the Revolution have turned into mere words, theories and discussitons, have become lighter than feathers, frightening no one. There is an infinite difference between a Robespierre who occurs only once on hinstory and a Robespierre who eternally returns, chopping off French heads.
Let us therefore agree that the idea of eternal return implies a perspective from which things apper other than as we know them: they appear without the mitigating circumstance of their transitory nature. This mitigating circumstance prevents us from coming to a verdict. For how can we condemn something that is ephemeral, in transit? In the sunset of dissolution, everything is illuminated by the aura of nostaligia, even the guillotine.
Not long ago, I caught myself ecperiencing a most incredible sensation. Leafing through a book on Hitler, i was touched by some of his portraits: they reminded me of my childhood. I grew up during the war; several members of my family pelished in Hitler’s concentration camps; but what were their deaths compared with the memories of a lost period in my life, a period that would never return?
This reconciliation with Hitler reveals the profound moral perversity of a world that rests essentially on the nonexistence of return, for in this world everything is pardoned in advance and therefore everything cynically permitted.
If every second of our lives recurs an infinate number of times, we are nailed to eternity as Jesus Christ was nailed to the cross. It is a terrifying prospect. In the world of eternal return the weight of unbearable responsibility lies heavy on every move we make. That is why Nirtxche called the idea of eternal return the heaviest of burdens.(das schwerste Gewicht).
If eternal return is the heaviest of burdens, then our lives can stand out against it in all their splendid lightness.
But is heaviness truly deplorable and lightness splendid?
キッズスペース
今、イオンの有料キッズスペースで娘を遠くから眺めている。一日遊び放題出入り自由で2000円。とても安い。良い。眠い。15:00。11時から娘とイオンにいる。眠い。娘は知らない誰かの父親と楽しく話している。いつもどこかの親を捕まえて遊び相手にしている。おれはとにかく眠い。早く帰りたい。近ごろはただ、何もしていない。娘がこのまま大きくなって、俺は給料が上がらず、静かに、逃げ場を失っていくような予想がある。それでもいまのこの生活のリズムが悪くないので、このままにしている。金を稼ぎたい。金を、金がない。金、金。
後輩が一人、退職代行で辞めた。
娘が、運動が好きで、だから習い事も運動をやらせているけども、いかんせんやはり遺伝子か、そこまで得意ではなさそうに見える。娘の得意なことを伸ばしてやりたい。娘の得意なことを伸ばしたとき、それはおれが得意なこととは違うんだろう。
眠い。娘はまだ、キッズスペースの小さな小屋の中で、知らない子どもとその父親とおままごとをしている。マッサージチェアで寝ているパパが3人。熊のぬいぐるみを枕にしているママが一人。俺も寝たい。
短気
とにかく殺したい許せないと思うときは午前に事件が発生した後も午後も怒りが常にあり、帰宅中の車の中でも怒りが消えずに音楽すら聴けない。カオルと電話し、タナカと電話し、家族で美味しいビールを飲み、その上で当日夜にまだ怒りが残っている。だから書き始めた。どこへ飛ばせばいいのかこの怒りは。怒りは人や環境に対して発生するようで、本質的には自分自身に対する怒りしかないのだとなにかで聞いたことがある。その怒りは、責められても自分の意見を通してうまく誤解を解く事ができない自分へのふがいなさにあるのだろうか。責められるとすぐに頭に血が上ってしまいバカになってしまう。おれは短気である。それに最近気づいた。おれは怒鳴ったりすることはめったにない。だから短気な人間とは対極にいると思っていた。しかしすぐに言葉に出さないだけで速攻でメーター振り切れるほどにブチ切れているのである。そのくせ、相手の間違いを論理で正そうとする。相手が間違っているという認識はあるものの、頭に血が上っているので論理をうまく言葉にできない。ふがいない。殺したい。怒りがある。殺す、という気持ちについて昔からよく考える。そのような気持ちには、地方中小であっても大企業であっても感じた。前時代的な会社でも今風の会社でも殺したいと思うことはある。そして、種類が違うだけで同じような理不尽もある。その殺意はもしかしたらふがいない気持ちの裏返しなのかもしれない。情けないと、悔しいと思う気持ちを怒りで上書きしている。いや、正直全くわからない。本当の気持ちを深堀できない。今見える自分の感情の表層の部分はとにかく怒り。通常仕事で嫌なことがあるとそれは怒りとして表出する。今日みたいに人と話すことで怒りを中和することもあるが基本的にはどこにも飛ばさない。怒りは自分のコアに蓄積されて濁ったソウルジェムがいつかおれを何かに変える。自分に専門性を持たせて自分のペースで仕事できる環境に身を置けばこの苦しみから逃れられるのだと思っていた。ある意味では正しかった。この苦しみ、怒りを味わう回数は減った。それでもゼロにすることはできない。おそらく客観的に見て、もっと簡単な方法はあるのだろう。それは例えば日ごろからコミュニケーションをとって争いを未然に防ぐだとか、クソバイスを貰っても軽く流すことができたりとか、仕事の愚痴仲間を見つけてうまいこと発散するとか、やり方があるはずだ。だがおれはいかんせん、誰にでもできるイージーなことができない人間。そして人を見下すことが多い。年上で自分より経験の高い人でも見下す。お前が何言ってんだ殺すぞという気持ちになる。相手からすれば年下で経験も浅いくせに逆切れしてくるから腹が立つ。当たり前。バトルしなくていいところでバトルしている。とはいえ、できないことをできるようになるより、できることをもっとできるようにするほうが自主的な改善としては効果が高いと思う。まだ遅くない。殺す。殺す。クソが。そうでなくて、娘と一緒に幸せになりたい。それだけなんだ。
テナジー05
ドライブが打てて楽しい。運動しなくてはいけないという社会の圧があり、確かにそうだなと思う中、ランニングシューズやスピンバイクを買っても一切続かない。それなら卓球しかないと7年ぶりに友人を誘って卓球をした。ここ数か月週一で打っている。仕事帰りに二時間強。不思議と翌日に響かずむしろ体力の向上を感じる。実際に向上しているのか。これが運動の力。そして、ハイテンションラバーで打つドライブの楽しさ。粘着とも表とも違うこの、中距離からのドライブの伸び。跳ねないラバー主義だったけど跳ねるラバーの楽しさを知った。ひっかけなくても叩くようにして回転がかかる。だから速い球に対してもドライブで返せる。だからドライブの打ち合いができる。引き合い。それが高校の時できなくて悲しかった。引き合いの楽しさは卓球の楽しさ。そして目的である運動そのものの喜び。ありがとうハイテンションラバー。ありがとうテナジー05。