傍流

朝イチから本屋併設のカフェで無限に水を飲みながら、Twitterを見たりFilmarksを見たりして過ごしている現在12時半。16時のアポと17時半の会議までにやらなければいけない仕事があるんだけども、一旦無視して、というか今日まだ仕事していないが、ブログを書こう。こんなふうにリモートでほぼ一日サボりながら仕事ができるのは良い環境なんだけど、こんなことを続けていても社内で生きていくスキルが身につかずどちらにしても長期的にサボりながら過ごすことはできない。ので、というか色々あって、仕事を辞める。いや、誰かに伝えるつもりで書いてしまっているな。これは頭の中のなにかをそのまま出力するためのブログ、適当なことを脈絡なく書いてくべき。ああ、であれば、思考の速度でタイプはできていないな。そのためにキーボード配置変えたり色々できる努力はあるな。確かにこれから仕事をやめたらブログに限らず文章を書く時間は増えるかも知れない。もっともっと素早くそのまま頭の中を出力できれば気持ちいいだろうな。こうやって遅くタイプしているうちに考えていたことが消えていく。考えていたこと、それは、うまく生きるか善く生きるかという話、それと、娘がべらぼうに可愛いということ、娘の可愛さを間近で見られただけでリモワで過ごせたこの一年は悪くなかったのかもしれない。ただそれは、時間と精神を犠牲に金を貰っているだけである。それは、そうだ。そんな普通の生き方しかできないのではないかと、そんな普通の生き方でも、おれはわりとうまくやっていけるのではないかという希望があった。だからこそ塾を辞めてから普通に企業に入って、その後もまたイケてる風の企業に入って生きてきたのだけど、やはりどうにも、おれのほうが社会をシステムを強く嫌っていて、みんなはそこまで嫌っていないということがわかってきたり、また、おれのほうもまた会社に求められるふるまいができておらず、みんなはそこまで意識せずともうまくふるまえているということ、そのようなことがわかってきて、やはり、そうかと、違っていたのだなと、ふつうに生きることをしなくてはいけないのではないかと、実学を手に入れなくては、ポータブルスキルを手に入れなくてはと思って英語やEXCELなどを学んでみたものの、まあ大事ではあるけども、コミュ力、空気に従う素直さ、カスみたいなアドバイスを受け入れる寛容さのようなもののほうがより大事であったことに気付かされ、おれはそんな力はないと、思ったのであった。いやこれは、言い訳というかふてくされというか、本当に求められていたのはそのようなスタンス面だけではなく、ヒアリング力、設計力、提案力、見立てる力、仕立てる力、動かす力といったスキル面であったがおれはそこを磨くことができなかった。こんな力がほんとうにあるのか?R営業しか使ってないだろうこの概念を、ポータブルスキルであったのか判断つかないけども、まあ、どうでもいい。そういうスキルがなく、ポテンシャルとしてもおそらく持ち合わせていなく、だからこの磨く気も起きず、そんな世界で生きていくことはできん。うまく生きることなどどうでもいいんだ。善く生きることのほうが重要なんだ。娘が幸せになるためには経済的な安定は必要だが、経済的な安定と引き換えにゾンビ化したおれがいる家庭で過ごすことのほうが悪い影響を与えるだろう。善く生きることとうまく生きることの両立ができないのなら、どちらかを選ぶしかないなら、善く生きることを選ぶ。それはパラノではなくスキゾで生きるということ。うまく生きる(パラノ)を選んだ人間のほうが圧倒的に多く、善意で足を引っ張ってくるだろう。ただ幸いにも妻も親もどちらかというとそういうタイプではない。善く生きたいと思ったからこそ、お父さんも県庁を辞めたんだろう。善く生きるが正解であり、社会の(会社の)小さい世界で生きていると、その世界がすべてだと思ってしまう。気のいい専務でも、話のわかる上司でも、それは変わらない。この会社=社会=世界だと思ってしまう。個人はパースペクティブな視点を持つことはできない。その、狭い世界でこの会社=社会=世界という視点を持ち、「ああおれは子どもだったな、いまは立派な社会人。社会とは不条理なものだよ、ハハハ」などと言って社会に適合して生きるやり方をおれは虎になると呼んでいた。虎になることには才能が必要だった。宗教にハマるのは才能が必要だと二十歳頃理解したが、三十路にて、社会にハマるのも才能が必要だと理解した。おれは宗教にも社会にもハマらずに生きていきたい。なぜなら才能がないんだから。社会にぴったりとハマらず、資本主義の端っこで霞を食いながら生きていきたい。娘がいる。おれの人生における唯一の最高の傑作である娘がいて、でもこれが枷になる。家族がいながらにして、霞を食いながらなどと言えるのだろうか。わからない。でもやってみたい。ヘルタースケルターでいこう。社会の優等生どもの世界は除いた。おれには水が合わなかった。外界に降りよう。片道きっぷなのはわかっている。もうこんな福利厚生の良い会社では働けないだろう。だからこそ一度でもその世界を見たことには意味がある。傍流でしか生きられない。20代はじめから傍流を選べば良かったのかもしれないが、傍流しかないと確認したことには意味があったはず。それに10年かけたのは長かったのか。