爺2

漫画は自然に読む。映画、小説、音楽は話す人がいないとやる気にならんよね。職場と家の往復では新しく素晴らしいものを見ても話す相手がおらんのよ。趣味の合う人と付き合ったり結婚したりするメリットはそこにあったのだと気づいた。一人で好きなものを追い求めても孤独になるだけだ。複数で好きなものを追い求めても、社会的には効用が薄いというのに、一人で追い求めてどうする。特に文章なんかは一人じゃ読めませんわ。いや、一人でも読めるんだろうけど、このコンテンツ供給過多時代に、ゆっくりじっくり文章と向き合えませんわ。好きなものを語り合う友人と家族と職場があるやつ、というのが存在するらしいということを、ネットさえ遮断すれば忘れることができるのはむしろ幸せかもしれない。下手に高学歴だったらそれを成し遂げているやつらを視界からシャットアウトできなかっただろう。どうでもいいか。仕事は落ち着いてきて、なんだか全くやる気がない。やる気がないからせっかく時間を作ってTSUTAYAのSHAREラウンジにきているのにブログなど書いている。自分の書いたものを読み返すと似たようなことばかり言っていて、なんなんだろかと思う。社会的に役に立ちそうな方法に努力して、そろそろ行き詰ってきたように感じる。頭が悪くなってきたので相対的な幸せしか享受できなくなってきているのかもしれない。逆に今こそ思想とか勉強すると絶対的な価値観で生きられるのかもしれない。ああー人生なげー-。労働。労働だけをしていればそこまで辛くないけど、人生なげえと思ってしまうな。うーん社会的地位と自分の芸術的な喜びと本能的な喜び全部得たい。そういう欲だけは昔から書いている。そこから逃げられないと、解脱できないと、いや、解脱なんてたぶんできない。クソーーーー。俺は結婚して正解だったんだろう。自分の時間がいくらあったって解脱できなくて世間の相対評価に晒されてカスの一言に搔きむしられてしまうのなら、結婚という社会的立場がやはり必要だった。仕事でむかついたとき、家がないと辛い。妻にもむかついたときは、娘だけがよりどころになる。娘に嫌われたらと思うと辛い。今の状況で成人した娘に邪見に扱われていたらと思うと恐ろしい。そのとき俺は53歳。そういう人はたくさんいるだろう。可哀想だ。そのときに逃げ込める場所はきっと仕事ではないだろう。どのように哀れな爺が出来上がるのか、わかっていてもきっと避けることはできないんだろう。50そこらでもし哀れな爺になっても70くらいで逆に枯れたいい爺になって孫に少し一目置かれて死ねたらいい。