視点

タコピーの原罪の、最後の、彼らの問題それ自体は解決されず、それでもひとつだけの救い、友情だけを救いとして物語を終えることの優しさが泣ける。重松清を思い出す。悲しい出来事がたくさんあって、それらが解決されるわけではなく、ただ前向きになって終われる。この物語のあともまた悲しい出来事はあるけど、それでも一瞬前向きになれる場面があって、そこを救いとする描き方は、「生きてて良かったそんな夜を探してる」というような深夜高速や、中島らもの、「めったにはない、何十年に一回くらいしかないかもしれないが、『生きていてよかった』と思う夜がある。一度でもそういうことがあれば、あとはゴミクズのような日々であっても生きていける」というような言葉にもつながる。問題はある。それはそれとして、生きていかなければいけないという視点。そういう視点が優しくて泣けてくる。悲しいリアルを抽象化した、幼い視点で描くのはプンプンもそうだけど、タコピーの原罪の作者のほうがより優しい視点から描いている。漫画も小説も、芸術はその作者の視点を見ることができる。ゴッホの絵はゴッホの見ていた景色。漫画もその人の見ている景色が見れる。素晴らしい漫画は多いけど、その中でも性善説の視点の人の漫画を、できるだけ得たい。うめざわしゅんの世界の見方が好きじゃない。浅野いにおが描く、無機質な悪意の塊のような他人が好きじゃない。多くの漫画で描かれる新興宗教の悪のシンプルさが気に入らない。真鍋昌平の視点も好きじゃない。いや、真鍋昌平も、浅野いにおも、うめざわしゅんも実は好きだ。新刊が出れば普通に読みたい。でも、芸術の接種は社会性を損なう。頭の悪い虎でいるために、たくさんの漫画を、素晴らしい漫画だけに限定したとしても、素晴らしい漫画をたくさん読むわけにはいかないと思う。選びたい。コンテンツがこれだけ豊富で、素晴らしいものに絞ってもまだ豊富で、素晴らしい漫画だけに絞ってもまだ豊富で、やりたいことが無限にあるのに、ああ、それで、せっかく得るなら性善説の視点の人の風景を見たい。マイナスの力を持った素晴らしい芸術は避けたい。プラスの力を持った素晴らしい芸術ですら、生きずらさを加速させるのに。だから、タコピーの原罪のラストの、あの優しい視点、ある問題が解決しなくても、別の方向で救いがある。そして問題は続いていく。それでも生きているという視点がとてもよかった。生きていると、人間のカスな部分を見ることが多い。だからこそ芸術は美しいものを見たい。いや、そのカスな部分を解像度高く描いてくれるものもやはり必要だ。まあ、もういいか、この話は。

貴いもの

ビジュアルディクショナリーの髭剃りのページのカタカナを娘が「ギヤ」と読んで、俺が「Gear」と英語で読んだ。俺は、いや、何かを書き始めるために今さっき起きたことから書き始めてみたが10:35でもう眠い。風邪を引いている。鼻水が固くて黄色い。中国に行きたい。黄色は皇帝の色。鼻水が止まらない。鼻の下が乾燥して肌が荒れる。花粉症ですかとよく聞かれる。花粉症どころかすべてのアレルギー値がMAXなんだよと一瞬過ぎるが急に不幸自慢される準備は向こうはないはずなのでただ俺は、花粉症だと思います。とか、アレルギーの薬を飲んでますだとか、言う。花粉症ごときで辛いとか言ってんじゃねえとかあるけどアレルギーの薬、フェキソフェナジンとか無しで普通に花粉症を直で受けたら辛いんだろう。ひとのくるしみはわからない。この苦しみは誰にもわからない。おれと同じ身の上になったものでなければと李徴も言う。その気持ちでおれはまわりに壁を作っていたが、当然それは他人にも言えること。他人の苦しみはおれにはわからない。職場の、単純作業をする中年女性たち、休憩時間も身を寄せ合って、たわいもないことを明るくしゃべっている。そのうちの何人がその場を本当に楽しいと思っているのだろう。ただ私たちは家庭のために働きつつ、楽しくおしゃべりできていればいいのよという体を保つことが必要だからやっているのか、単純に楽しく過ごしているのか、わからない。おれにはあのように、楽しそうな場で自分も楽しくいることはできない。複数人の、職場の人間の輪の中で、楽しくもなんともない会話を楽しい感じでやる能力が欠けている。20代中盤ではじめて社会に触れたときは、この能力が欠けていることがそのまま社会不適合を表すのだろ思っていた。なんとなく楽しく笑って冗談をやり過ごし、そして冗談を自分も言い笑う能力。それが必須だと。しかしそれは弱者だから必要だったのかもしれない。今も弱者だが、最底辺ではない。笑わなくてよいときに笑わないことを選択しても困らない。いや、実のところもう少し愛想笑いをしてもよいとは思う。思うが、必須ではない。自分の楽さと社会的に許される範囲が大きく乖離していない。以前はここが大きく乖離していたから、素のままで空気の読めないやつになるか、自分を殺すかの二択だった。それが辛かった。今も楽ではない。しかし、大変さのフェーズが変わった。昔の、若手としての可愛らしさが求められるフェーズのほうがとてもつらかった。つまらない冗談を言い、それを笑うことを強制してくる要素は今の環境では比較的弱い。だからこそ、同じ職場のおばさんたちがその空気感を持って休み時間を過ごしているのを見ると、不快感がありつつ、自分がそこにいなくて済んでいるという優越感?のようなものがある。あの場で本当に皆が楽しんでいるように思えない。あそこにいる6,7人のうち、苦しみながら楽しい感じで会話しているひとが実は多数派なのかもしれないとすら思う。そういう悲しさが、おばさんたちだけではなく、男性陣にもある。おれはそうなりたくない。なりたくないが、なりつつあるんだろう。染まるとはそういうことだ。まわりを見下して、蔑んで、嫌いなものばかりになっていく。だれもが、嫌いな人間が多いわけではないという。おれは嫌いな人間ばかりである。おれが蔑んでいる人間からおれは蔑まれているのかもしれない。もしそうだとして、それは気にする必要はないと思う。自分の人生と自分の家族の人生と、長い歴史と遠い未来を考えたときに、あまりに些末な問題。しかし、可能性として見ておく必要がある。おれの人間嫌いは加速して、おれの嫌われ方も加速する。そのようにして、面倒な爺になるだろう。そのとき、わずかな見いだせる人には、おれの中の貴いものを見いだせるくらいにはおれの中が濁っていなければそれでいいと思う。

悪性のなにか

統一教会についてのニュースをみるといやな刺激を受ける、統一教会への恨みだけでなく、統一教会についてのコメントや、社会運動や、マスコミや、統一教会に向けたひとつひとつにイラついて生活の邪魔になる。なにか行動を起こしたくなる。でも俺はそんなことはしなくていい。自分の両親や自分の家族に危害が及ばないように。社会や教会からこれ以上悪性のなにかを受け取らないように。それが優先。統一教会が弱まる動きがあればそれは良いこと。でも自分が触れる必要はない。足を取られる必要はない。統一教会も気持ち悪いし統一教会に関連した世間の動きも認識もすべて気持ち悪い。社会にずっとある悪に目を逸らして今さらどうにかできるなら最初からどうにかしろと。この波に乗って純粋に巨悪に向き合ってる人がいるのはわかってるけどトレンドだからそれに乗じてるだけの動きが多く見えて、不快。誰も本気でどうにかしようとしていなくて、責任逃れや自分の利益だけを求めて、そういう無責任なやつらに仕事でもイラついてるのに、統一教会の問題をみるとそんなやつらが世間の多くを占めてることがよくわかって、余計に辛くなる。

爺2

漫画は自然に読む。映画、小説、音楽は話す人がいないとやる気にならんよね。職場と家の往復では新しく素晴らしいものを見ても話す相手がおらんのよ。趣味の合う人と付き合ったり結婚したりするメリットはそこにあったのだと気づいた。一人で好きなものを追い求めても孤独になるだけだ。複数で好きなものを追い求めても、社会的には効用が薄いというのに、一人で追い求めてどうする。特に文章なんかは一人じゃ読めませんわ。いや、一人でも読めるんだろうけど、このコンテンツ供給過多時代に、ゆっくりじっくり文章と向き合えませんわ。好きなものを語り合う友人と家族と職場があるやつ、というのが存在するらしいということを、ネットさえ遮断すれば忘れることができるのはむしろ幸せかもしれない。下手に高学歴だったらそれを成し遂げているやつらを視界からシャットアウトできなかっただろう。どうでもいいか。仕事は落ち着いてきて、なんだか全くやる気がない。やる気がないからせっかく時間を作ってTSUTAYAのSHAREラウンジにきているのにブログなど書いている。自分の書いたものを読み返すと似たようなことばかり言っていて、なんなんだろかと思う。社会的に役に立ちそうな方法に努力して、そろそろ行き詰ってきたように感じる。頭が悪くなってきたので相対的な幸せしか享受できなくなってきているのかもしれない。逆に今こそ思想とか勉強すると絶対的な価値観で生きられるのかもしれない。ああー人生なげー-。労働。労働だけをしていればそこまで辛くないけど、人生なげえと思ってしまうな。うーん社会的地位と自分の芸術的な喜びと本能的な喜び全部得たい。そういう欲だけは昔から書いている。そこから逃げられないと、解脱できないと、いや、解脱なんてたぶんできない。クソーーーー。俺は結婚して正解だったんだろう。自分の時間がいくらあったって解脱できなくて世間の相対評価に晒されてカスの一言に搔きむしられてしまうのなら、結婚という社会的立場がやはり必要だった。仕事でむかついたとき、家がないと辛い。妻にもむかついたときは、娘だけがよりどころになる。娘に嫌われたらと思うと辛い。今の状況で成人した娘に邪見に扱われていたらと思うと恐ろしい。そのとき俺は53歳。そういう人はたくさんいるだろう。可哀想だ。そのときに逃げ込める場所はきっと仕事ではないだろう。どのように哀れな爺が出来上がるのか、わかっていてもきっと避けることはできないんだろう。50そこらでもし哀れな爺になっても70くらいで逆に枯れたいい爺になって孫に少し一目置かれて死ねたらいい。

本をあまり読まなくなって、本がより読めなくなった。漫画をあまり読まなくなって、昔より面白いと思える感度が狭くなった。でもそれは予想していたこと。好きなものから遠ざかれば自然とそうなるだろうと思っていたし。ああ、これは、書くことがないな。自分を社会のほうに当てはめるというほど無理しているつもりはないけど、自分の好きなように生きているよりも楽だ。ある程度自分を社会にアジャストした状態で生きているほうが何も考えずにだらだら生きていけても異分子になり辛く、そのほうが仕事も私生活もスムーズなので、やはり好きなことして生きていくルートは茨の道だったんだ。社会的に役に立つことばかりやっていると社会で生きるのは楽になることはわかったけど、その楽さに甘えて生きているとゲロダサ爺になることは見えている。すでにその兆候がある。まわりの無責任さやバカさに腹を立てて、常にプンスカ起こっている爺、そういうものになるようなビジョンがかすかに見えたことがある。それはよくない。

あなひなぐが完結していたことは知っていた。それでも読まずに避けていた。半端に読んでも漫画の面白さが普通に働くことをつまらなくさせるから、だからスキップとローファーも重版出来も途中で読むのをやめている。でも完結したなら読んでいいよなと思って、あさひなぐを読んでみた。あなひなぐは面白かったのだろうか。三須英子のところは読み返したらやはりよかった。部長として苦しむ野上えりもよかった。それでも正直終盤は飛ばし読みしてしまうほどに、、熱が入らなかった。過去に読んだときは2016年4月。2016年なんて最近だし自分も今、 なんだろう。書くことがない。やはりインプットがないと湧き出てくるものがないのか、それとも、仕事中心に生きているせいでやはり、頭が悪くなってきたのか。年取ったなあというやつか。これが。俺ももうすぐ33歳。別に今33歳であることは問題ないけど、7年後40歳というのはやばいと思う。7年といえば前あさひなぐを読んだのが2016年で7年前なのだけど、それをもう一回やったら40歳になるらしい。いや、たいしたことないか。俺が過去に思っていた33歳が恐ろしく爺だと思っていたけどそうでもなかったように40歳も爺ではない。人生100年ということなので、たいしたことじゃない。いや、人生100年であることが問題か。俺はもともと長生きするプランなんてない。年金もちゃんともらえるのか、そもそも空白期間に払ってなかったことがセーフなのかアウトなのかもいまいちわかっていない。どんだけiDeCoコスパ良かろうが先を見据えた人生などできないのでスルーしている。長生きするプランは今でもない。ただ死ぬつもりはないので普通にいけばそこそこ生きるんだろう。昔は漫画が生きがいだったのでヒストリエハンターハンターを読み切るまでには死ねないとか思ってたけど、まあ今でもそうだけど、生きたいというよりは生きねばならないという中でどうしていこうかと、でもそれはもともとそうか。別に変わっていることはない。ああ本当に、この世の中はネットを見てもリアルを見てもバカばかり。ネットは遮断すればいいけどリアルのバカはどうすればいいのか。カスもいる。キチガイもいる。カスはどうでもいいしキチガイはそこまで遭遇しないけどバカはたくさんいるし迷惑。長い。自分の理想は停滞して漫画を読んで不健康に暮らすこと。それは本当に爺さんにならないときっと実現できない。早朝、外でゆっくり歩きながらゆっくり煙草を吸う爺のうらやましいこと。家に帰って干し芋でも食いながら司馬遼太郎を読んでたりしたら尚うらやましい。ここはTSUTAYAのラウンジ。体のラインが出る服を着た色気のある女がいる。セックスがしてえ。セックスができないのなら爺になって理想の生活がしてえ。そういうこと。完

22:46

金曜日夜、体が疲れ果てて、鼻水が止まらない。鼻水が止まらないのはいつものこと。体が疲れ果てて、疲れて、重い、重力でがっつりベッドに押し込まれている。たまたまブログを開いてしまったのでなにか書いてみようかと思ったがわからない、なにを書くか。仕事では、チームワークより管理や体系化が重要な感じに心地よさを感じつつ、ミスれないプレッシャーにより働きすぎている気もして、やはり、隙間がない。俺の人生にはやはり隙間がない。やりたいことやるべきことばかりで。だからこそ、やはり、20代前半でまったり過ごせたのは大事だったのだとか、過去を振り返っても意味がない。今の俺、隣の部屋で娘と妻の声が聞こえる22:46。明日は実家に帰る。布施からつうわいけます?とのLINEがあった。

両立

亜人を読んだ。完結してから漫画を読むと、もちろんすっきり最後まで読めるけど、途中の最高な場面ひとつひとつを味わいきらずに次へ行ってしまう気がするのと、完結してから時間が経っていると、リアルタイムの感想に触れ合えない寂しさがある。いちいちリアルタイムで追っているのは、このコンテンツ量産時代に、だめだ書くの面倒になってきたな。明日は月曜で、いまは23:26。今日は娘を公園に連れて行ったけど、亜人が読みたくて面倒な気持ちで連れて行った。コンテンツは最高に面白い。apexをやりまくって、ボイスチャットをしてわいわい話しながらロビーで出撃準備をして、タバコを吸うような、生活は最高ではないだろうか。そうして、好きな漫画を読んで同じ漫画を語り合う友がいるような世界。それは、誰もがやっている快楽で、おれもそれが、もう一度欲しい。おれはそういうものを、働きながらやることはできない。家族を持ちながらやることはできない。十分な時間がほしい。コロナ禍の大学生は可哀想だという。しかし、俺の理想は叶えられる。合コン三昧の生活はできなくても、apex三昧の生活はできるだろう。コンテンツ三昧の生活はできるだろう。なきものに対して、例えば変えられない過去とか、最高の女とか、自分のポテンシャルのこととか、そういうものに対してのもどかしさは軽減されてきたものの、逆に、目の前にあったけど失ったもの、たばこや、コンテンツ三昧の時間や、FPSの腕や、ダメ人間であるという免罪符や、はてなブックマーク…なにかが足りない。それが物質的なものなのか、精神的なものなのかわからない。でも昔摂取していた多くのものを今摂れていない。たばこかFPSかコンテンツ、それらのどれかだと思う。自分を構成していたものがなくなって、別人になってしまった。バランスよくはできない。FPSをもしまた始めれば、娘と遊んでいる時間が苦痛になると思う。働いている時間が苦痛になると思う。FPSにはキリがない。やればやるほどやりたくなる。コンテンツならせめて作品単位で終わりがある。ああ、インターネットで起きている日々の面白いこと、きっとウクライナ危機についても、いろんな記事があるんだろう。それをきっかけに本や動画をみて、また興味が湧いて、いやなコメントを見て、好奇心や怒りやいろんな感情が揺り動かされて、、もっと情報を欲してしまって、そうだ。きりがない。きりがないことがいやなんだ。たばこも、FPSも、ネットも、最高すぎてきりがない。それだけの人生ならいい。しかしそれだけの人生を生きられる人も、世間や社会のしょうもない価値観や意見に振り回されずに生きる強さが必要で、それもそれで大変である。就職しろとか結婚しろとか子供を持てとかカスみたいな意見は無視していいけどそれはそれで疲れるし、そういうものと戦わなくていい今は非常に楽である。この楽さを持ちながら過去に得た快感を得続けたいというのはわがままだろうか。ふと今わかった。不倫をする人は、どうしても、両立したかったんだろう。いや、文章にすると当たり前の動機だけど、実感として理解した。過去遊んだ人間は結婚してからも遊びたい。ああ、ちょうどよく、遊ぶことなんてできない。不倫がばれればすべて台無しになるとわかっててもやりたいんだろう。タバコやFPSくらい、やってもなにも台無しにならないだろうと言うかもしれないけど、俺は台無しになる。わかってる。すぐにハマってしまう。なんでこんな気持ちになっているのか。亜人を読んだからか。面白い漫画を読むと悲しくなってしまう。タバコをやめても、タバコの旨さは忘れられない。FPSの面白さも忘れられない。もう少し、人生が安定したら、そういうものともう少しうまく付き合っていく道も探ってもいいかもしれない。