俺たちの明日

娘のもちもちの肌が愛おしい。顔が、表情がたまらない。家にいるとき、だいたい、娘かわいいと思っている。最近はツイートは否定的なことは書かないようにしようとしていて、そうすると思っていることはたいてい娘がかわいいということで、そんなことばっかり言っていても仕方ないからツイートすることがあまりない。今は仕事が比較的落ち着いて、娘も可愛くて、日々が安定している。娘がいなくなったらおれはどうなってしまうのか。わにとかげぎすの主人公のように、それが恐ろしい。もともと持っていなかったものを得て、それがなくなるのがこわいという気持ち。持っていなかったときはそんなものが大事になるとは全く想像できていなかった。この娘のいる幸せがなくなるときは、おそらく、なにかの大きな不幸ではなく、普通にもう娘が可愛くなくなったときだろう。愛は残っているが、目の保養になるようなきらびやかな肌は失われた娘をふつうに家族として大事にしているときにはじめて失われたことに気づくのだろう。いまあるこの幸せは、動画や写真に残しても、残らない。ぱぱがだいすきすきとか、ぱぱとけっこんする、のような、強いワードを、最高の笑顔で、毎日言われて、最高である。最高の女の最高の笑顔で最高の言葉を言われるという経験が自分の人生にないまま、終えることについて、踏ん切りがついていなかった自分に、思わぬ形で、娘という形で、最高のそれを与えてもらえて、自分の中のその踏ん切りがつかない部分が少し浄化されたように思う。

虎になるということについて、自分の中で理解しているつもりで、カオルなどにも、俺は虎になったからなどと、わかったように言っていたが、虎になるとはもっとゆっくり、少しずつなっていくものだったなと、通勤の車の中でオーディブル山月記を聞いているときに気付いた。そして運転しながら二度泣いた。一度目は「己は詩によって名を成そうと思いながら、進んで師に就いたり、求めて詩友と交って切磋琢磨せっさたくまに努めたりすることをしなかった。かといって、又、己は俗物の間にすることもいさぎよしとしなかった。」のところ。二度目は「だが、お別れする前にもう一つ頼みがある。それは我が妻子のことだ。彼等かれら※(「埒のつくり+虎」、第3水準1-91-48)かくりゃくにいる。固より、己の運命に就いては知るはずがない。君が南から帰ったら、己は既に死んだと彼等に告げて貰えないだろうか。決して今日のことだけは明かさないで欲しい。厚かましいお願だが、彼等の孤弱をあわれんで、今後とも道塗どうと飢凍きとうすることのないように計らって戴けるならば、自分にとって、恩倖おんこう、これに過ぎたるはい。
 言終って、叢中から慟哭どうこくの声が聞えた。袁もまた涙をうかべ、よろこんで李徴の意にいたいむねを答えた。李徴の声はしかしたちまち又先刻の自嘲的な調子にもどって、言った。
 本当は、ず、この事の方を先にお願いすべきだったのだ、己が人間だったなら。飢え凍えようとする妻子のことよりも、おのれの乏しい詩業の方を気にかけているような男だから、こんな獣に身をおとすのだ。」のところ。李徴はきっと、家族のことも愛していたんだと思った。昔はそんなことは思わなかったけど今はそれがわかった。そんな家族への愛よりも自分の才能に向き合えなかったことの後悔がずっと大きかったんだろうと思って泣いてしまった。

YouTubeで昔のゲームの動画を見ているといろいろ思い出す。FF8で、カーバンクルを取り逃したことに気付いた俺は、そこでFF8をやめた。なんでそんなふうに作るんだと思って絶望した。俺の人生はそんな、やれたかも委員会のような取り逃しばかり。実際やれたかやれなかったかなんてどうでもいい。あったかもしれないときめきや青春を取り逃したこと、不義理をしたこと、取り返しのつかないことをやって、あとに戻って取り戻せないなら、もうおれはすぐにやめたくなるし、だからFF8はやめた。人生は続けていた。FF8は最後まで続けていればよかった。人生も取り逃したものばかりだけどやっていけばいい。わかってる。今そんなふうに、つらい気持ちになっているわけじゃない。ただYouTubeFF8のリノアル説を見ているときに、ああFF8をやめたんだったなと思いだして、過去の自分の人生を振り返って、いろんなGFを取り逃してきたなと夜中に思ったことを今思い出しただけで、今は娘をエネルギーにして生きていけると思っている。でもそんなふうに、いいパパのような顔をして、いままでの自分の行いを清算したつもりになっているのはずるいんじゃないかと、思う面もある。カスばかりの世界でカスになった自分と、実家にある天使のように可愛い俺の写真を見て、娘には、この可愛い娘がこれから社会に触れるときの摩擦を少しでも減らしてあげたいと、そのためには燃え尽きてもいいといまなら思う。だから、合計8万円になったとしてもキュボロの追加パーツを買おうと思っている。

 

10代 憎しみと愛入り交じった目で世間を罵り

20代 悲しみを知って目を背けたくって街を彷徨い歩き

30代 愛する人のためのこの命だってことに あぁ気付いたな

今ちょうどブログを書き終わってフセのブログを読んだときに、俺たちの明日の歌詞を見て驚いた。17歳のとき、河川敷でエーテツとこの歌詞について話していて、「まだそんな年齢ではないけど、きっとそうなんだろうな~って感じがするよなあ」なんて会話をした。とはいえ、ミヤジと違って俺は30代はそうはならないだろうと思っていた。しかしいま書いたブログの内容とは近い。愛する人のためのこの命だってことに気付いたのかもしれない。娘が美しいままでいてほしい。

速筋と遅筋

営業が苦手だという認識はあったけど、営業の能力は仕事の基礎的なものであるので、営業ができないということは仕事が全くできないということになってしまう。だから転職活動をしているときに「営業ができない」ということの解像度を上げる必要があって、分解して考えてみた記憶があるが、どんなふうに考えたか忘れた。ただ、瞬発力、加速、速筋的な言葉でイメージできるような、一瞬でパワーを出すような力、が俺には欠けており、そのために営業ができなかったんじゃないかと、昨日娘に見送られながら雪の中ゴミ捨てに行ったとき、思った。俺はなぜオーバーウォッチができないのか、と通じる。俺はFPSは複数作やっていて、むしろ得意なんだとすら思っていたが、オーバーウォッチはすぐに壁にぶつかった。おそらく一瞬で処理しなければいけない情報が多いんだろう。営業も速筋が求められる。通常の商談の通常の会話でも、またはふとしたチャンスに対応するためにも、うまく身のこなしができる人とできない人がいる。いつウルトを使うのか?を頭で考えて準備してもしょうもないタイミングでウルトを打ってしまうように、咄嗟のタイミングで適した動きができなかった。速筋がないやつは営業ができない。モグライダーのような速筋の優れたパフォーマンス、アドリブや非再現性の高いものに惹かれるのは自分にないものへの憧れかもしれない。

逆に、じっくり取り組むような、内省や体系化を必要とするような仕事、長期的な勉強が効果的な仕事、つまり遅筋が効果を発揮するような仕事が俺は得意なんだと思う。時間をかけて勉強した英語を使うもの、エイムやキャラコンを鍛えることが戦績に直結しやすいゲーム、営業であっても分析を元にした提案、無駄な作業を自動化する業務改善。

ただ、速筋が0の人間は立ち上がることもできない。営業力が0の人間は最低限の仕事もできない。衛生兵でありながら突撃兵の分隊に入れられて苦労して、二度と突撃兵には戻りたくないと思いつつ、可能ならもう少しだけ深く突撃兵の作法を覚えたかったと今になって思う。

らいか ろりん すとん

アドバイスをいくらされても、受け入れるキャパがなくて、しっかり噛み砕きたい消化したいからまず自分の考えをわかってほしいのに、ただ、アドバイスされるばかりで、キャパオーバーで辛くなってくるトトに共感する。同じように殻があってそれを破ったセントチヒロチッチからすれば、理屈じゃないんだと、気持ちの部分だけなんだと言いたいが、うまく伝わらない。 渡辺のリーダーとしての辛さがわかり、WACKとして何が求められているかをわかるチッチはやはりプールイと同じくリーダーなんだと思った。 殻を破った人間も、安定の中にいるとまた殻に篭る。こなすことを優先してしまう。そういう人間は詰められるとすぐにわかる。豆柴のナオのように。 本気で突き詰めて考え続けないとすぐに露呈する。候補生は本気でやっているが突き詰めて考え続けていない。しかし本気で突き詰めて考え続けるのは修羅の道。セントチヒロチッチやモモコグミカンパニーは修羅道にいる目をしている。候補生の中に入ると余計に目立つ。特別可愛いわけでもないのにアイドルをやるということの厳しさの中で生きるためには一芸があるかサイコパスか、そうでなければ修羅道を潜らなきゃいけないんだと思う。超人になれないジェロニモのように。同じジェロニモにしかなれない立場として、修羅道を潜らなきゃいけないんだという覚悟を伝えることしかできないとわかっているから、オーディションでのモモコやチッチは恐い顔をしているんだろう。

モグライダーとフリースタイル

モグライダーが面白いと思う。ゆにばーすは全くおもしろくない。それはなぜか。ゆにばーすだって多くの審査員に支持されている。順番の問題はあったにせよ、結果的にゆにばーすはモグライダーの点を上回った。じゃあ逆になぜおれはモグライダーが好きなのか。おれは即興性の高さが好きなのかもしれない。練習して練習して仕上がった完璧なものよりも、荒くても魅力のあるものが好きなのかもしれない。いまフリースタイルが流行っているのもそこだと思う。完璧なラップが聞きたければCDを聞けば良い。即興性の中から生まれるものに魅力を感じているからフリースタイルが人気。漫才は結局、決まった流れをなぞるだけ。フリートークのほうが面白いに決まっている。ただ、決まった流れを言っているだけに見えないからアンタッチャブルは面白かった。いや結局柴田が好きだからモグライダー芝が好きなだけなのか。好きなことをやっている(ように見える)相方をツッコミの対応力でさばくのを見るのが快感なのかもしれない。即興性、アド・リブ、非再現性、それこそが評価するべき一番のポイント。だからこそ、去年、敗者復活と全く同じ噛むネタをしたインディアンスは好きじゃない。誰に向けて漫才しているのかと、噛むことがネタに含まれている完璧性を讃えろということか。完璧に近づくことが漫才ならなんのためにライブをやっているのか。CDと同じ音を聞くためにライブに行く人はいない。決まった台本をなぞっているだけなのだとしても、それを忘れさせてくれるのがプロなんじゃないのか。それでもゆにばーす、インディアンス、和牛が人気なのは、そういうもの、完璧性を求めている人がいまでも多くて、荒く、不完全なものはまだメインストリームではないということなんだろう。

ノーミュージックノーライフ

ブルーピリオドのアニメがやっていて、以前一話を見たときは、漫画のエッセンスが多く失われていて残念だったけど、今見るとなかなか楽しく見れた。八虎は身近な才能に直面しても、続けることを選んだ。リボーンの騎士の土屋も、自分以上の才能ばかりの世界に挫折したあと、結局続けることを選んだ。ピンポンのアクマは身近な才能に直面して、別の道を選んだ。夢を諦める諦めないとかとか努力を続ける続けないとかよりも、結局、向き合っている状態か否かが、そのキャラクターの美しさにつながる。リクルートでも向き合っているやつが多かった。仕事を週に5日以上することが決まっている以上、仕事に向き合えなければ人生は辛くなる。漫画やゲームや芸術や勉強に時間が使えないのは仕方ない。細々とした時間を趣味に費やす人生はできない。質の高いコンテンツには劇薬のようなものがあるから、下手に摂取すると人生を考え直しかねない。虎になりつつあるのだから、このまま虎になったほうがいい。虎になりつつある今、虎の楽さがよくわかる。漫画を読むとしてもワンピースのような漫画だけでいい。下手に感性を刺激されたくない。ノーミュージックノーライフじゃないどころか特になにもなくても普通に生きていける。

漫画が映画より優れている理由とドキュメンタリーについて

映画よりも、漫画の方が素晴らしい作品が多い。なぜなら漫画は主に一人のクリエイターが作るから。個人が伝えたいと思った表現がフィルターを通さず生で伝わってくる迫力がある。チームではフィルターが多く、表現が丸くなってエッセンスが失われる。ピクサーのように超有能な集団が最高のチームワークでまるで一人のクリエイターのように作品を作れればそれは素晴らしい作品ができるだろうが、そうやって作れる作品数には限りがある。最高のチームが世界に100あって毎年100本の作品を作れるとしても、素晴らしい個人のクリエイターは数十万単位でいるので作品の母数で圧倒的に上回る。

映画は実際の人間が動いて色も音もあるので本来映画のほうがポテンシャルはある。が、現在の人類の能力では映画のポテンシャルを活かしきれない。アニメも同じ。ポテンシャルで言えば最高レベルだが、人間界の事情によって名作は少ない。だから映画は積極的に見ようと思えない。

ただ、ドキュメンタリーは面白いと最近思う。人間界で起きていることそのものを見ることができる。編集によって二次情報的にはなってしまうけど、それでも一次情報に近い。漫画ではどうしても二次情報になってしまう。作者を通した世界を見ることができる喜びはあるけど、何も通さずに世界を見たい欲求のほうが大きい。何も通さずに世界を見たいなら自分の目で見ればいいじゃないかというがそうじゃない。二重スリットとは違うけど観測した時点で物事が変わってしまうというやつで、自分がいない場で起きている物事が見たい、ので、ドキュメンタリーはありがたい。松本大洋によって凝縮された佐久間学も素晴らしいが、SiS消滅の詩の清水の生の顔もそれと同じくらい感銘を受ける。チームで作らなければいけないという映画の弱みも解消される上にローデータの魅力もあるドキュメンタリーというジャンル。でも良作を探すのが難しい。とりあえず、「なぜ君は総理大臣になれないのか」を観てみる

ボケ

WACKのオーディションドキュメンタリーで魅力的な子は、目の前のことに盲目的とも言えるほど全力を尽くしていて、逆に早々に退場してしまう子は変に客観視してるように見える。盲目的な子は美しい一方で、客観的な子はあまり美しく見えない。盲目的な子はマキタスポーツのいうボケで、客観的な子はツッコミ。盲目的な子は山月記でいう虎で、客観的な子は人間の李徴。盲目的な子はピンポンでいうアクマで、客観的な子は名前も出てこない選手たち。ツッコミのメリットは、特定の会社や宗教団体に毒されないこと、物事を色んな角度から見れること、大きな失敗はしないこと、安全な立場からシニカルな視点を持てること。デメリットは、美しくないこと、社会に必要とされないこと、ゆっくりと死んでいくこと。

俺はきっと変われない。ただ人生のうちのひとときだけでも、ボケに、虎に、アクマになるときがあってもいいかもしれないと思っている。20代の、何もできない社会人に求められるのは間違いなくボケであったし、ツッコミである新人など可愛いわけがない。WACKのドキュメンタリーでそれが炙り出される。魅力的な子はいつもボケ。でも危ういのもまたボケ。俺は小さい頃からその危うさを避けてきた。盲目であるがゆえにボケ全開の人生を送った両親や、自分の体の弱さを思うとボケとして生きるのは破滅しか見えなかった。ツッコミを選べば破滅はない。しかし何も持たざる30代になる。そうして、愚かな、ツッコミしかできないおじさんたちがSNSの海で可視化されている。アイドルはボケとして生きているし、ボケとして生きることを肯定する歌や映画や漫画はたくさんあって、俺はそれらから常に感動を得てばかりいて、いつかアラバキで峯田を観たときに、この、ただの感動を得るだけのコンテンツイーターになるんじゃなくて俺は自分の人生を生きたいと思ったんだった。特に宣言はしない。俺はこうなるぞという宣言はしない。ただこのWACKのドキュメンタリーを観て、魅力的な子は常にボケで、俺が好きな甲本ヒロト峯田和伸大森靖子も最高のボケであるがゆえに魅力的だったということを改めて思い出し、最高のボケにはなれなくてもせめて腐ったキモツッコミおじさんにはなりたくないと思った。そのために俺ができるのは、こころよく我に働く仕事を見つけること、日々部屋の掃除をすること、スマホより娘を優先すること。