おやすみプンプン

ハルミンにもプンプンのように、内に秘めたいろいろがあったのだ。プンプンと違ってそれは外に表出する前だった。プンプンも関君もプンプンパパもプンプンママも雄一おじさんも翠さんもそれぞれの思いがあり、それがお互いに伝わることはなく、それぞれが関係性をもって生きている。この漫画ではすぐに退場したハルミンにだっていろんな思いがあり、一面ではCPUやカスにしか見えない人々もそれぞれのプンプンのような何かがあり、それでもプンプンに再開したときのハルミンのように、ハルミンからしたら今のプンプンしか見えていない。おやすみプンプンはプンプンの閉じた内面を描くうじうじしたものという記憶だった。今回一気読みしてもっと広がりのある、各人それぞれの内面があって、ポリフォニーと違ってそれがぶつかり合うわけでもなく、単に表面に出さずにただ生きているという世界があると思い出した。七夕でプンプンが一気読みできるサービスがあって、それで読んだ。心を動かされたところをスクショして、最終話を読んだあとにそのスクショをひとつずつ見ていくと、プンプンとそのまわりの人々の人生が猛スピードで流れてすごかった。漫画は素晴らしい。漫画は素晴らしく、そして、漫画で学んだことはすぐに忘れる。この、おやすみプンプンの物語がすごくよかったことすら忘れて、一時、浅野いにお(笑)のような態度すらとっていた。浅野いにおはうみべの女の子が志向で、プンプンやデデデデじゃない、のようなスタンスのときもあった。実際、そんなふうに比べることはできないのだ。それは芸術は比較するものじゃないとかいう話ではなくて、読んだその直後とその後では全くもう熱が違う。

序盤はとにかくプンプンパパ、それ以上にプンプンママだった。子どもを愛していてもこのような寂しい終わり方をするものなのか。最後、ハルミンが先生になって、また同じように転校生に恋をする男の子がいて、そこから物語が始まるといったような、このプンプンの話は単に一人の男とそのまわりの人間たちの話で、この物語に主要に絡んでこなかった人、出てこなかった人にも同じような話があって、そしてそれは繰り返されるという、その広がりはいいけど、それなら愛子ちゃんはあそこまで辛い最後でなくてよかったんじゃないだろうか?浅野いにおは、カスを徹底的にカスに描く。それはもう、顔からカスに描く。愛子ちゃんのお母さんはもう完全にブスのカスだった。宗教団体も徹底的に愚かで悪に描かれる。その宗教団体の子供のとしきの宗教もまた、陳腐な終わり方を迎える。宗教関連はいらなかった。個人の辛さを他社もまた、見えないけど持っている。おやすみプンプンでミクロに丁寧に描かれた事象が、実はマクロでもあるということ。それが最後、ハルミンの最終話で感じさせてくれた。それをもっと効果的にするために、プンプンの物語はあそこまでハードでなくてよかったと思う。宗教団体もわかりやすい悪として描くべきじゃなかったと思う。スタバにいるかわいい顔の女の子の顔を盗み見てしまう。なぜスタバには毎回きれいな女がいる?俺の生活圏にはいない。プンプンを一気読みして、地元の塩ラーメンを食べて、万年筆屋で色彩雫を買って、まだプンプンのことが頭から離れないから、仕事する前にまず書こうと思った。でも俺の頭はもうこのタイプの女の人のことを考えている。このようなタイプの女と、過ごしたか…などと、もう数千回頭に上ったことをこれ以上考えても仕方がない。そう、このようになったときの俺の思考ルートはいつも同じなので書く必要がない。以下同文