可愛いは正義


これは0か1かの問題で、1か100かの問題ではない。0だけはだめだ。感情の揺れ幅が0の女だけはだめだ。0か1かのハードルは意外と大きい。

「もてない男―恋愛論を超えて」 小谷野敦著 を読んで - 甘い生活

昼の12時に寝て深夜1時45分に起き、沢山の人からラインが来ていて、俺、人気者だなと気分が良くなった。この間GWの街コンで会った女(推定29歳)からも、ご飯食べに行きませんか?とラインが来ていた。最近年上の女とのやりとりが多い。いつかブログにimとして出てきた28歳、GW街コンで知り合って飯食った巨乳28歳、今日ラインがきていた29歳。最近卓球を一緒にやっている合コンで会った30歳と33歳。

性欲では、0ではない人もいるが、感情の揺れ幅では皆0。そう、感情の揺れ幅が0の女だけはだめだ。このハードルは大きい。

女とか、当分いいわ、という気持ちになっているときにsyrupさんの話聞いたり文章読んだりしていると、アツいなあ、俺にはそんな熱ねえなあと思うが、俺の周りに0しかないことも関係している。

「消費者目線で見るのをやめて、人として仲良くなろうよ」とか山田玲司言うけどさ、大事な友人にだって自分から連絡取らないくらいなのに、大事でもない人にこちらから歩み寄る気合いないよ。山田玲司の言葉に背中押されたんだったか、前の彼女には歩み寄ろうという気持ちがあった。演じてやろうという気持ちがあった。そういうのがだんだんなくなっていって別れたのかもしれない。0の子たちにあげるエネルギーがあれば、前の彼女にあげているよ。

恋愛のゴールに結婚があるこの年齢の人たちに、その相手はできない旨を伝え、軽さの世界で遊べないか交渉することが俺にできる唯一。

理想は、可愛い女がやってきて、腐った生活を共有してくれる「大学生の悲鳴」のような世界。あの子が家に来て、ゆっくりとした時間を過ごす。iggy pop fan clubでもいい。青春の中の世界、それを求めている。でもそれはヒラエス。もう存在しない。

可愛い女のいる世界での退廃。それが欲しい。将来がなくて腐ってても、それすら美しくするコペルニクス的転回力。それが可愛いは正義ということ。

なぜ可愛い女の子でなければいけないのか?syrupさんと電話したときに出た問い。人にどう見られるかが大事だからということで同意した。でも正確には、もう一人の自分にどう見られるかだ。ホテルで、他に誰もいなくても、もう一人の俺がその空間を良しとできなければいけない。可愛いは正義とは、可愛いには触れるものすべて、空間や退廃すら正義にする力があるということ。

恋愛がうまくできないから本を読んだり映画を観たりアニメを観たり音楽を聴いたりする。心を動かすのは恋愛でなくてもできる。それでも出来ないならそこに固執しなくてもいいじゃないかという声に俺はどうしても納得できない。じゃあどうして俺が今触れている創作物の大部分に恋愛が絡んでくるんだと。さんざん「良いもの」として脳髄に刻み込まれているものをどうして諦めなくてはいけないのだろうか。

「もてない男―恋愛論を超えて」 小谷野敦著 を読んで - 甘い生活

 ほんとそれ。同意の嵐。


ウラニーノ/「大学生の悲鳴」