シュタインズゲート

最後のセリフからエンディング曲が流れるまでのタイミング。それが映像作品の肝のひとつ。そういう意味でシュタインズゲート劇場版は良かった。ハルヒ一期最終話や四畳半最終話もそれが完璧だった。パっと思いつくのがアニメなのは何故だろう。俺は自主映画でそれを意識していた。コチさんに映画を見て監督はアニメ好きそうだといわれたとクサノからのメールに書いてあった。俺の映画はアニメ的だと。そのときは実感がわかなかったけど今なら少し納得する。音と画両方がある映像作品なら映画とアニメがあるけど、なんで映画はセリフからのエンディングが少ないんだろう。この前見たAll you need is killトムクルーズのセリフからのエンディングだった。けどあれも日本のラノベ原作だと考えるとアニメ寄りか。

シュタゲ劇場版を見たのは今日がはじめてのはずなのに何故か既視感に襲われた。デジャヴは別の世界線での出来事だという。別の世界線の別の俺が既に見ているということか。

物語のはじめの言葉、行動が別の意味を持ってラストにつかわれるという点でもシュタゲはぐっとくる。別の例ですぐ思いつくのは横道世之介のサンドイッチ。サンドイッチの食べ方がはじめとは別の意味を表現してる。いや、これはなんか違うな。岡部の中二病のセリフがラストで真実になる感じとはちょっと違う。でもとにかくこういうやつ。山本弘のアイの物語での詩音が来た日のやつとか、西の魔女が死んだのアイノウとか、四畳半の小津のセリフとか、どれもラストにもってこられるとズキューンとくる。時間の経過、状況の変化、別の似た世界で同じ言葉で別の意味合いってのに弱い。

表情に限界のあるアニメは実写よりセリフで説明しなきゃいけないところが多い。そこがアニメの欠点。対象年齢の低さ、わかりやすさが求められてることも大きい。シュタゲも、いちいちセリフで説明しなくてもいいと思うところが多かった。展開には熱くなれるけど、キャラが好きになれることが少ないのもアニメ。あの頃、ペニーレインとのような。悶えさせてくれるような会話と表情、シチュがない。ハルヒもそう。

ハルヒは萌えの新しい文法を生み出したらしい。今まではみくるちゃん的はにゃーんな萌え路線しかなかったのが、ハルヒ的萌えを生み出したという。その系譜にクリスもいるんだろう。しかしそれをたどるならアスカじゃないのか。そうすると、エヴァは偉大だ。エヴァは引きの画の文法を生み出したらしい。

悶えさせてくれるようなシチュエーション、それが宇多丸のいうア↑コガレか。アコガレ。横断歩道アコガレや一人足りないアコガレ。どしゃぶりアコガレ。そういうアコガレを作品にするとき、どうしてもアニメじゃリアル感に欠ける。そこは実写の強み。俺はアコガレを見せてくれる作品が好きなんだきっと。

フェイリスのセリフ「例えば全世界すべての生き物が絶滅しちゃった世界だと、”現在”を観測できる存在がいなくなっちゃうと思うのニャ」から色々考えた。みんなが同じ時間を過ごしているわけではない可能性。俺以外はみんなCPU(哲学的ゾンビ)説に近いようで違う。俺以外も生きてるけど、同じ現在を生きているわけではない。この世界のこの時間は俺だけで、お母さんは5分先を生きているかもしれない。お父さんは10年先に生きていてその世界では別の俺が生きていたり死んでいたりするかもしれない。観測者ありきで時間の現在を判断するなら、フェイリスのいうように生き物がいなければ現在はない。観測者個々によって過ごしている時間が違う可能性もある。シュタゲの内容とはズレるけど、こう考えると面白い。

死んだらどこへ行くのかとよく話題に上がる。ある人が病気でしんだとき、そのある人本人は自分が病気で死なない世界に移動するのかも。でもそしたら寿命でしんだときは、どうなるんだろうか。俺と同じくらい意識がある人間が何十億と生きていることの不思議が証明されるような何かがあるんだろうけどそれは頭で考えようとするのがむずかしいくらい立体的な仕組みなんだろう。平面の図では考えられない立体的な、それよりももっとって考えてもまとまんないしあとで見返してもなんのことかわからなそうだ。文章診断に自分の文章を診断してもらったら三木清が一番似てるとのことだった。自分にしかわからない文章が似てるってことか。