スティルライフ

この世界がきみのために存在すると思ってはいけない。世界はきみを入れる容器ではない。

世界ときみは、二本の木が並んで立つように、どちらも寄りかかることなく、それぞれまっすぐに立っている。

きみは自分のそばに世界という立派な木があることを知っている。それを喜んでいる、世界の方はあまりきみのことを考えていないかもしれない。

でも、外に立つ世界とは別に、きみの中にも、一つの世界がある。きみは自分の内部の広大な薄明の世界を想像してみることができる。きみの意識は二つの世界の境界の飢えにいる。大事なのは、山脈や、人や、染色工場や、蝉時雨などからなる外の世界と、きみの中にある広い世界との間に連絡をつけること、一歩の距離をおいて並び立つ二つの世界の呼応と調和をはかることだ。たとえば、星を見るとかして。

You shouldn't think that this world exists for you. The world is not a container for you.

The world and you are like two trees standing side by side, neither leaning on the other, each standing upright.

You know that the world is a magnificent tree next to you. You're pleased about it. The world may not think much of you,though.

But apart from the world, there is another world inside you. You can imagine the vast twilight world inside you. Your consciousness is on the edge of the border between the two worlds. The important thing is to establish contact between the outer world of mountains, people, dye factories, and cicada chorus, and the vast world inside you, to create a harmony between the two worlds that stand side by side at a distance from each other. For example, by looking at stars.

 

二つの世界の呼応と調和がうまくいっていると、毎日を過すのはずっと楽になる。心の力をよけいなことに使う必要がなくなる。

水の味がわかり、人を怒らせることが少なくなる。

星を正しく見るのはむずかしいが、上手になればそれだけの効果があがるだろう。

星ではなく、せせらぎや、蝉時雨でもいいのだけれども。

When the two worlds are in harmony with each other, it'll be much easier to live every single day. And then, there will be no need to use the power of the mind for unnecessary things.

You will be able to taste water, and you will be less likely to offend others.

It is difficult to see the stars properly, but if you get better at it, you will be that much more effective. Though it could be murmuring of a stream or cicada chorus, not stars.

 

永遠も半ばを過ぎて

なにかを書こう。なにかを書こうと思うときは、座ってみて、やろうと思っていたことがやる気にならないとき。せめてなにか生産的なことをと思って書いてみることが多い。前回の記事は3か月前。スタバで書いた。今もスタバ。少なくとも週に一度はスタバにいる。家で作業はできない。家では娘に絡まれる。娘の、数時間ぶりに見た時の美しさ可愛さ尊さ、しかしすぐに疲れて一人になりたくなってしまう。マリオワンダーやカービィのグルメフェスなど二人でプレイできるが、基本的に娘一人でやってもらおうと思っている。放置したほうが自分で試行錯誤してできるようになる。マリオワンダーのハナちゃんレース(グルメレースのようなもの)で娘がYが走るボタンであることを知らなくて負けているのを見たとき、Yボタン押しっぱなしで走るんだと教えるか迷って、教えなかった。何度も負けて泣きついてきたら教えてやろうと。そしたら2回目で理解してクリアしていた。俺が思ってる以上にできることがあるんだ。一緒にプレイしていたらもどかしくて教えたくなってしまう。寄り添って、ヘルプがあったときに助けるだけで良い。親はいても子は育つという言葉を昔読んだ。確かに親はいても子は育つ。親がいなければより育つ。だからなにか。なにを書こうとしていたか。そう、家では作業できない。だからスタバに行く。アプリで頼めば二杯目はベンティサイズでも100円。good。どうでもいいか。こんな話は。今は土曜日の朝。平日の怒りがまだ残っている。怒り。怒りではないのか。常に頭に、負の感情がある。頭の中がカユいんだ、そういう中島らもの本があったな。

ただ、こうして生きてきてみるとわかるのだが、めったにはない、何十年に一回くらいしかないかもしれないが、『生きていてよかった』と思う夜がある。一度でもそういうことがあれば、あとはゴミクズのような日々であっても生きていける。だから「あいつも生きてりゃよかったのに」と思う。生きていて、バカをやって、アル中になって、醜く老いていって、それでも「まんざらでもない」瞬間を額に入れてときどき眺めたりして、そうやって生きていればよかったのに、と思う。

 ―――僕に踏まれた町と僕が踏まれた町

確かこの文の前には、生きていてもクソみたいなことばかりだ、大人になる前に、浪人時代に死んだアイツが正しかったんじゃないか、という内容があった気がする。だからこそ、それでも生きていてよかったと思う夜があると言っていることに力がある。ふと、中島らもには娘がいたのかなと思って調べてみた。いた。

1978年 娘誕生時点で中島らも26歳

1986年 頭の中がカユいんだ 34歳(娘6歳)

1989年 僕に踏まれた町と僕が踏まれた町 37歳 (娘11歳)

1991年 今夜、すべてのバーで 39歳(娘13歳)

1993年 ガダラの豚 41歳(娘15歳)

1994年 永遠も半ばを過ぎて 42歳(娘16歳)

2004年 中島らも死去 52歳(娘26歳)

そして2009年に娘は31歳で作家活動を開始している。俺はその2009年に19歳で、学生寮の狭い部屋でガダラの豚を読んでいた。翌日の試験勉強をしなければいけないのに読みふけってしまった。高校のときVIPPERな俺で、永遠も半ばを過ぎてがおすすめされていて読んだ。この本の出版は中島らもの娘が16歳のとき。思春期だから影響受けそう、と思ったけどwikiによるとカズオイシグロの私を離さないでを読んで作家になったらしい。そういうものか。中島らもの、生きていてよかったと思う夜にはきっと娘も含まれていただろう。

スモーキンビリー

誠実であることは大事だが、うまくやることも大事だと学んできている。はずだけど、未だに変に真面目に誠実になってしまっているのかもしれない。今の会社にまともなマネジメントはない。だからすべての指示仕事をこなすことは現実的に不可能。それでもある程度頑張ってしまったり、やろうとしてしまう。自分のキャパの中でできる仕事に優先順位をつけて、できないものはさりげなく捨てる。そしてタスクを増やさないようにしている。これも自分では不真面目なつもりだけど真面目すぎるのかもしれない。仕事はすべてやる前提で、すっきりすべて終わらせることが善であるという考えで仕事をしている。もっとカオスに乱雑であってもいいのかもしれない。会社も社長もルーズで担当は俺一人でだから俺がちゃんとしていないといけないはず。なのだけど、一度決めた俺に不利なルールを俺だけが意固地に守っているような、仕事のための仕事を自分に課しているようなときがある。質の良い製品を納期通りにコンスタントに輸入するために正しくなければいけない。そのミッションは当然大事だけど常に正しくある必要はない。根本を押さえて捨てるところは捨てる。過去の仕事は思い切って捨てる。それが問題になったとしても必要なリスクと考える。

一般的に仕事がキャパオーバーなら、できる仕事をまわりに振るとか、上司に相談して仕事量を調整するとか、人員を増やす提案をするとか、仕組み化できるところを仕組み化するとかあるんだろうけど、仕組み化以外ではあまり実現可能と思えない。ローレベルな会社ではマネジメントや改善といった概念はほぼない。ローレベルな会社だからこそ自分一人が単に頑張ることでこなせることもある。単に頑張るのはバカっぽいけどこれが最適解であることも多い気がする。最近気づいたけどワークライフバランスを意識するとうまくいかない。時間内だけで働いて切り替えてプライベートを楽しんだりできない。バランスを目指して最低限の時間で十分に働こうと考えてもスタンスが落ちて働くのが辛くなる。虎であるかそうでないかが半端なときの方が辛いと李徴も言っていた。あークソ苛つく。仕事で苛つく。でも本質的にはこれは他者に対する不満というよりうまくできていない自分に対するもどかしさ。そこに向き合いたくないので文章にはしない。怒り。ここに対しての対処法の最適解は知らない。最適解ではないけど、運動や勉強などのプラスの行動を取ると救われることがある。殺す。殺す。間接的に殺す。殺す。愛。前職の役員がある社内イベントの壇上で、若いころはぶち殺したいと思う上司ばかりだったよと言って笑いをとっていた。同じイベントで仕事で最も大事なこととは?という質問にフリップに「愛」と一言書いていた。愛、殺す、愛、殺す、愛、殺す、それは両立する。本気で仕事をしているから殺すという気持ちと愛がそれぞれある。愛という憎悪。スモーキンビリー。この役員の人は自分自身の中で愛と殺意を両方持ちながら仕事していたんだなと今になって勇気づけられる。

書き方

報告

正確な報告が必要であるという思い込みは捨てる必要がある。事象をまとめ、提示し、あとは上司に決めてもらうという動きはうまくいかない。100調べて10伝えて、あとは聞かれたら答える。正確な報告も必要ない。バッファをとることが必要。スケジュールの見積もりなら、社内に公表する情報、上司に報告するぶっちゃけの情報(と見せかけた余裕をもった情報)と、自分だけの本当のスケジュールをそれぞれ別で持つ。直属の上司である社長が実務を知らないので、とことんブラックボックス化する。半端な報告で上司を不安にさせる必要はない。

決定

決めることから逃げたがる人が多い。決めると責任が生じる不安から、説明責任を果たす自信がないから、決めることを避けたがる。そのため、仕事がペンディングされたままの状態で残りやすい。それが不発弾となってあとで爆発する。そうならないために決定を下す必要がある。社長の決裁が必要なものなら99%まで骨格を作って最終決定だけ貰う。99%までもっていくためにも決定が必要で、それを率先してやる人間が少ない。事象を提示して終わりという行動をとられると、決めろやという気持ちになる。事象の提示だけでは仕事は進まない。営業部としての意見をまとめるなり仮決定を出すなり仕事を進めてほしい。報告だけで仕事をした気になっている人に苛つきつつ、報告だけして上司に怒られた過去の経験を思い出して申し訳ない気持ちになる。

能力や気質的に弱い人、かつ注意力も責任感も低い人で多くが構成されている会社で、問題が常に発生し続ける構造になっている。誰の何が問題かわかっているのに、こいつが無責任だとか、こいつがバカだとか、わかっていることを何度も思い続けるのは時間の無駄。無駄と思いつつ、帰りの車の中で繰り返し思い続けてしまう。

クソバイス

クソみたいなアドバイスをクソバイスというらしい。前職ではアドバイスの波にうんざりしていたので、この言葉はしっくりくる。今の環境ではクソバイスは少ない。しかし新人がクソバイスされているのは見かける。善意である場合もあるから邪見にすることもできない。無意識なのか意識的なのか別として、あきらかに欲を満たすためのはけ口としてのアドバイスも見かける。それはまさに便所にクソするようなので、クソバイスという言葉はとても直感的に理解できる。

忘却バッテリー

誰から見ても葉流火には才能があった 一瞬でたくさんの人がやってきた 言葉はすべて善意からくるものだったが 非常に無責任なものだった 忘却バッテリー

クソバイスでメモしていた忘却バッテリーのセリフを思い出した。無料だったので先月一通り読んだ。以前読んだときはわからなかったけど記憶喪失という設定の面白さだけじゃなくて、その設定から生じるキャラクターそれぞれの心理描写も丁寧で面白かった。

ブログの書き方について

notionを整理して出てきたメモを羅列してあとからまとめるという書き方にしてみた。書いていて疲れるというか今時点では眠くなってきた。ただ腹立つときとかどうしようもない気持ちの時に吐き出すだけの書き方で十分だと思うけど、notionの整理のときにそのまま思考も整理したほうが有益かと思って試しにやってみた。思考の整理を目的にするとちゃんと論理立てて書かなきゃいけない気持ちになって、そうすると断定的な物言いが増えてしまって、そうするとまたなんか実際のニュアンスと違った言い回しになってしまう。それがいいのか悪いのか。ただ現状だとなにかを書こうと思うときは負の感情スタートからであることが多くて、それはそれでよくない気持ちがある。何に対して?吐き出すことが目的なら別に負だけでいい。いいのか。いやどうでもいいのか。

一度でも我に頭を下げさせし人みな死ねといのりてしこと

おれは結局どこにいても、一定の人間から嫌われてしまう。だいたいの他人の事がうっすら嫌いで、とても嫌いな人間もけっこういるので、そしてそれを隠せないので、人からすぐ嫌われてしまうんだろう。以前は上司や先輩が嫌いで、それでいて、やる気がなかった。いまは、やる気のないジジイババア共が嫌いだ。常に怒りがあることは変わっていない。人間が嫌いなことも変わっていない。ただ今のポジションのせいか、無責任な人間が新たに嫌いになった。やる気のない人間、怒られないことを最優先する人間、視野の狭い人間、嫌いだ。嫌いな人間のバリエーションが増えた。多くの人が嫌いになることはこの糞人間だらけの世界では普通なこと。それでも高級な人は嫌いなカス共を優しく導くことができるのだろう。おれには難しい。経験豊富であるべきジジイババア共がバカか無責任かバカで無責任なやつかしかいなくて、そいつらのミスや、ミスすることもせず動かないことを想定して仕事をして、一段上で仕事しているつもりになっていたけど、やっぱりこの馬鹿どもをコントロールする仕事をしているという驕り、があることによって、偉そうになってしまうのだろう。入社二年目の若造がその態度なのだから悪く言われても仕方ない。そう、気づけばおれはできない人の気持ちを忘れている。営業のころ、おれは電話ひとつスムーズにできなかった。今おれが無能扱いしているジジイ共は、少なくとも電話はスムーズにできている。会社にふと訪れた取引先とも楽しく雑談している。おれが営業のころはそういうことはできなかった。おれができて当たり前だと思うことをこのジジイ共ができないとして、どうしてジジイ共を責めることができようか。もっと優しくならなければいけない。いや、優しくするとつけあがるのだった。難しい。どうすればいいか。いまの時点では、おれは、うまく調整する必要はないと思っている。人間関係を調整するために、人に悪く思われないように考えたり、そういうことは大事なんだけど、大事ではあるけど、大事に思いすぎるとそれに絡まれて動けなくなる。勝手にしろと、嫌いになるなら嫌え。人間関係に捉われて自分を殺すのは転職しない人間のムーブ。おれは気にする必要はない。終わりだと思えば去ればよい。保守的な動きをする年齢じゃない。嫌われても、大事なことをしなければいけない。自分の人生と自分の仕事のために大事なこと。こころよく我にはたらく仕事あれそれを仕遂げて死なむと思ふ。いや、また怒りが湧いてきた。おれに検品をやらせようと画策するジジイババア、おれがおれの仕事をやらなきゃ発注も入荷も全く進まないことをわかってるよな?検品以前に検品しなくて済むクオリティのものを作ってもらわなきゃいけないとわかっているよな?自動的に輸入されて自動的に品質改善されてるわけではないんだよ。目の前の出荷のことはお前らがやれよと、おれはおれの仕事をしないといけないんだよ。このやろう。全体を見ろ。と宣うことはできず、最大の敵であるボスババアにはおれは頭を下げるのだ。話が通じないので従うしかない。天災だと思うしかない。それでもおれの本能は、このボスババアも人間であると知っている。だから糞理論でまくしたてられたときに、従う自分が許せないのだ。一度でも我に頭を下げさせし人みな死ねといのりてしこと。

おやすみプンプン

ハルミンにもプンプンのように、内に秘めたいろいろがあったのだ。プンプンと違ってそれは外に表出する前だった。プンプンも関君もプンプンパパもプンプンママも雄一おじさんも翠さんもそれぞれの思いがあり、それがお互いに伝わることはなく、それぞれが関係性をもって生きている。この漫画ではすぐに退場したハルミンにだっていろんな思いがあり、一面ではCPUやカスにしか見えない人々もそれぞれのプンプンのような何かがあり、それでもプンプンに再開したときのハルミンのように、ハルミンからしたら今のプンプンしか見えていない。おやすみプンプンはプンプンの閉じた内面を描くうじうじしたものという記憶だった。今回一気読みしてもっと広がりのある、各人それぞれの内面があって、ポリフォニーと違ってそれがぶつかり合うわけでもなく、単に表面に出さずにただ生きているという世界があると思い出した。七夕でプンプンが一気読みできるサービスがあって、それで読んだ。心を動かされたところをスクショして、最終話を読んだあとにそのスクショをひとつずつ見ていくと、プンプンとそのまわりの人々の人生が猛スピードで流れてすごかった。漫画は素晴らしい。漫画は素晴らしく、そして、漫画で学んだことはすぐに忘れる。この、おやすみプンプンの物語がすごくよかったことすら忘れて、一時、浅野いにお(笑)のような態度すらとっていた。浅野いにおはうみべの女の子が志向で、プンプンやデデデデじゃない、のようなスタンスのときもあった。実際、そんなふうに比べることはできないのだ。それは芸術は比較するものじゃないとかいう話ではなくて、読んだその直後とその後では全くもう熱が違う。

序盤はとにかくプンプンパパ、それ以上にプンプンママだった。子どもを愛していてもこのような寂しい終わり方をするものなのか。最後、ハルミンが先生になって、また同じように転校生に恋をする男の子がいて、そこから物語が始まるといったような、このプンプンの話は単に一人の男とそのまわりの人間たちの話で、この物語に主要に絡んでこなかった人、出てこなかった人にも同じような話があって、そしてそれは繰り返されるという、その広がりはいいけど、それなら愛子ちゃんはあそこまで辛い最後でなくてよかったんじゃないだろうか?浅野いにおは、カスを徹底的にカスに描く。それはもう、顔からカスに描く。愛子ちゃんのお母さんはもう完全にブスのカスだった。宗教団体も徹底的に愚かで悪に描かれる。その宗教団体の子供のとしきの宗教もまた、陳腐な終わり方を迎える。宗教関連はいらなかった。個人の辛さを他社もまた、見えないけど持っている。おやすみプンプンでミクロに丁寧に描かれた事象が、実はマクロでもあるということ。それが最後、ハルミンの最終話で感じさせてくれた。それをもっと効果的にするために、プンプンの物語はあそこまでハードでなくてよかったと思う。宗教団体もわかりやすい悪として描くべきじゃなかったと思う。スタバにいるかわいい顔の女の子の顔を盗み見てしまう。なぜスタバには毎回きれいな女がいる?俺の生活圏にはいない。プンプンを一気読みして、地元の塩ラーメンを食べて、万年筆屋で色彩雫を買って、まだプンプンのことが頭から離れないから、仕事する前にまず書こうと思った。でも俺の頭はもうこのタイプの女の人のことを考えている。このようなタイプの女と、過ごしたか…などと、もう数千回頭に上ったことをこれ以上考えても仕方がない。そう、このようになったときの俺の思考ルートはいつも同じなので書く必要がない。以下同文

怒り

殺す、という気持ちが強まりすぎて、通勤中なぜか勃起していた25,6歳のころを思い出す。今は娘が癒しだから、職場のババアを殺したいと思ったとき、その気持ちを浄化させることができている。ああ、単に無力だったあの頃、本当につらかった。世界のカス人間の比率は実のところどの環境でも変わらない。そこに加えて自分が無力であると辛さが倍増する。おれにとって20代半ばが特に辛かった。スキルもなく、経験もなく、それでいて文化的な知識だけあるから、年上の無学な人をなめて、それが伝わって嫌われて、かといって仕事はなにもできず、怒りだけが募った。今でも大きくは変わっていない。ただ比較的、スキルと経験が上乗せされて、気持ちは楽になった。ただ、仕事ができないやつが偉そうなのは嫌われるけど、偉そうだとどちらにしろ嫌われるのであった。嫌われてるのかわからないけど、壁はある。ただ、責任の幅が違うのだから当たり前だ。誰のミスでも最終的におれがケツを拭かなければならないのだから、糞仕事をする爺婆に苛ついてしまうのは仕方ない。ああ、おい、ババア、おい、ジジイ、その、自分のポジションを守るために小さく息を潜めたり、または自分のせいではないと喚くのを、どうか、やめてくれ。おれは、お前らの正当性のなさを責めたりはしない。ただその分の怒りが溢れて、たわいのない会話に斜に構えたような返事をしてしまうのだ。おれは、そう、おそらく、このようなジジイとババアに毒されて、このようなジジイになり、それによって家族からも疎まれるのだろう。そのようにして無自覚なクソジジイになるだろうか。いや、おれはたぶん、自覚的なクソジジイになるだろう。カスからいつでも去れるように、スキルを身につけなければいけないと思った。その動きは正しかった。スキルにより、移動範囲が広がった。それならそのままスキルを磨く方向だろう。わかっている。おれが踏みとどまって、生きて、肉体を死なずに、精神も死なずに生きていくにはそのようなつまり方向を見据えてスキルをつけていく必要があって、それをするためにはあまり難しいことを考えないほうがいいのだ。ゆっくり歩け、たくさん水を飲め、ということではない。たくさん水を飲む、というのは、いろんな方向の本、芸術、文化、勉強をするということだと理解していた。今はたぶんそういうことをやっているべきじゃない。高校生が恋愛青春する漫画が好きだ。ただ、そのように素晴らしいコンテンツを接種したあと、現実に汚さにうんざりする。三次元で美しいものは娘だけだ。娘だけが、この三次元空間で唯一の、光輝く素晴らしいもの。わかる。簡単に転職できない狭い世界では、自分の身を守るために本能的に責任回避能力を磨いてしまう。だから、責任者に負担がかかりがちになる。主体的に動いても、責任回避能力だけを磨いたCPUたちの分の仕事をしなくていけない。主体的に動くのをやめれば、誰かがミスをしてそのケツを俺が拭かなければいけなくなる。ポジションがそうなっている。誰が悪いわけではない。構造による弊害だ。そしておれは、わからないけどおそらく、そこまでこのポジションが嫌いじゃない。バカのケツを拭きながら、それでも一人でできる仕事がよい。もっともっと自分の好きなようにできればもっと良い。もっと好きなように仕事して、もっと好きな勉強を仕事中にして、いつでも飛んでいけるようにしておくことが最適解。と書いていて、本心なのかわからなくなってきた。本当だろうか?おれは寂しがっている。本当はもっと、同じ程度の主体性を持った仲間と働きたい。そういうのはむずかしい。わかっている。前職ではまわりの熱よりおれの熱のほうが低かった。同じ熱で何かに向かうことはむずかしい。今までの人生でおれにその瞬間はあっただろうか?なかったかもしれない。だからこそ、宇宙よりも遠い場所で、小淵沢報瀬のまわりに仲間が集まるとき、泣いてしまうのだ。報瀬のキャラクターは人に何を言われても気にせずまっすぐ進む。それでもまったく気にしていないわけではなくて、笑うまわりを敵視して、そのエネルギーで生きている。そうして、日々アルバイトをして、三年前に行方不明になったお母さんへ毎日メールして、返事がこなくても毎日メールして、南極で見つけたお母さんのPCのOutlookに自分からの新着メールが何百件と溢れるとき、ちゃんと届いていたんだということ、自分がずっとメールしていたこと、そしてこのメールを誰も見ていないということ、つまり母はもういないということを理解して、今この瞬間に母が死んだかのように泣き叫ぶあのシーン、100%で泣ける。率でいくとハンターハンターのキメラアント編終盤はだいたい読み返すと7割で泣ける。宇宙よりも遠い場所Outlookのシーンは100%で泣ける。なぜ泣けるのだろうと思って書いてみたけど、それが正しい理由なんだろうか。わからない。報瀬というキャラクターに親近感と魅力を感じる。ざまあみろ、なんて気持ちより強く、殺す、という気持ちだけど、おれもまわりの多くの人に対して、殺す、とか、死ね、と感じている。そのような人間は少数派なのかもしれないけど、不健全だとは思わない。カスばかりのこの世でそのように思わずに生きていけるほうが不思議だ。でも、殺す、も死ねも、あまり好きな言葉じゃない。死ねは特に嫌いだ。死ね、は、自分の無関係で責任感がない。突き放していて嫌な感じだ。殺す、も、殺す気なんかないのに、違和感がある。殺したいという言葉もなんか弱い感じで嫌だ。何が近いんだろうか。消えろ、も違う。死ね、がやはり自分の感情には近いのかもしれない。正しい言葉を使いたい。ころす、とひらがなで書くと少しちかづくような気もするけど、わからない。怒り。怒り。怒り。怒りが多い。怒り。こんな自分がまたネットを見始めたら、怒らなくてもいいことにたくさん怒って、ケータイポチポチしてネットリンチに加わったりして、最低のカスの一員になるだろう。そう。そのようなネットのカスども、リアルのカスども、それは未来のおれであり、過去清い心を持った誰かなんだろう。一切皆苦諸行無常。このような現世の混沌と不条理を思うとき、仏教的な考えがしっくりくる。どうも西洋の宗教はその点で優しさがない。なぜか、西洋より東洋に魅力を感じる。英語をあまり頑張る気にならないのはそういうところもあると思う。もういいや、