短気

とにかく殺したい許せないと思うときは午前に事件が発生した後も午後も怒りが常にあり、帰宅中の車の中でも怒りが消えずに音楽すら聴けない。カオルと電話し、タナカと電話し、家族で美味しいビールを飲み、その上で当日夜にまだ怒りが残っている。だから書き始めた。どこへ飛ばせばいいのかこの怒りは。怒りは人や環境に対して発生するようで、本質的には自分自身に対する怒りしかないのだとなにかで聞いたことがある。その怒りは、責められても自分の意見を通してうまく誤解を解く事ができない自分へのふがいなさにあるのだろうか。責められるとすぐに頭に血が上ってしまいバカになってしまう。おれは短気である。それに最近気づいた。おれは怒鳴ったりすることはめったにない。だから短気な人間とは対極にいると思っていた。しかしすぐに言葉に出さないだけで速攻でメーター振り切れるほどにブチ切れているのである。そのくせ、相手の間違いを論理で正そうとする。相手が間違っているという認識はあるものの、頭に血が上っているので論理をうまく言葉にできない。ふがいない。殺したい。怒りがある。殺す、という気持ちについて昔からよく考える。そのような気持ちには、地方中小であっても大企業であっても感じた。前時代的な会社でも今風の会社でも殺したいと思うことはある。そして、種類が違うだけで同じような理不尽もある。その殺意はもしかしたらふがいない気持ちの裏返しなのかもしれない。情けないと、悔しいと思う気持ちを怒りで上書きしている。いや、正直全くわからない。本当の気持ちを深堀できない。今見える自分の感情の表層の部分はとにかく怒り。通常仕事で嫌なことがあるとそれは怒りとして表出する。今日みたいに人と話すことで怒りを中和することもあるが基本的にはどこにも飛ばさない。怒りは自分のコアに蓄積されて濁ったソウルジェムがいつかおれを何かに変える。自分に専門性を持たせて自分のペースで仕事できる環境に身を置けばこの苦しみから逃れられるのだと思っていた。ある意味では正しかった。この苦しみ、怒りを味わう回数は減った。それでもゼロにすることはできない。おそらく客観的に見て、もっと簡単な方法はあるのだろう。それは例えば日ごろからコミュニケーションをとって争いを未然に防ぐだとか、クソバイスを貰っても軽く流すことができたりとか、仕事の愚痴仲間を見つけてうまいこと発散するとか、やり方があるはずだ。だがおれはいかんせん、誰にでもできるイージーなことができない人間。そして人を見下すことが多い。年上で自分より経験の高い人でも見下す。お前が何言ってんだ殺すぞという気持ちになる。相手からすれば年下で経験も浅いくせに逆切れしてくるから腹が立つ。当たり前。バトルしなくていいところでバトルしている。とはいえ、できないことをできるようになるより、できることをもっとできるようにするほうが自主的な改善としては効果が高いと思う。まだ遅くない。殺す。殺す。クソが。そうでなくて、娘と一緒に幸せになりたい。それだけなんだ。

テナジー05

ドライブが打てて楽しい。運動しなくてはいけないという社会の圧があり、確かにそうだなと思う中、ランニングシューズやスピンバイクを買っても一切続かない。それなら卓球しかないと7年ぶりに友人を誘って卓球をした。ここ数か月週一で打っている。仕事帰りに二時間強。不思議と翌日に響かずむしろ体力の向上を感じる。実際に向上しているのか。これが運動の力。そして、ハイテンションラバーで打つドライブの楽しさ。粘着とも表とも違うこの、中距離からのドライブの伸び。跳ねないラバー主義だったけど跳ねるラバーの楽しさを知った。ひっかけなくても叩くようにして回転がかかる。だから速い球に対してもドライブで返せる。だからドライブの打ち合いができる。引き合い。それが高校の時できなくて悲しかった。引き合いの楽しさは卓球の楽しさ。そして目的である運動そのものの喜び。ありがとうハイテンションラバー。ありがとうテナジー05。

スティルライフ

この世界がきみのために存在すると思ってはいけない。世界はきみを入れる容器ではない。

世界ときみは、二本の木が並んで立つように、どちらも寄りかかることなく、それぞれまっすぐに立っている。

きみは自分のそばに世界という立派な木があることを知っている。それを喜んでいる、世界の方はあまりきみのことを考えていないかもしれない。

でも、外に立つ世界とは別に、きみの中にも、一つの世界がある。きみは自分の内部の広大な薄明の世界を想像してみることができる。きみの意識は二つの世界の境界の飢えにいる。大事なのは、山脈や、人や、染色工場や、蝉時雨などからなる外の世界と、きみの中にある広い世界との間に連絡をつけること、一歩の距離をおいて並び立つ二つの世界の呼応と調和をはかることだ。たとえば、星を見るとかして。

You shouldn't think that this world exists for you. The world is not a container for you.

The world and you are like two trees standing side by side, neither leaning on the other, each standing upright.

You know that the world is a magnificent tree next to you. You're pleased about it. The world may not think much of you,though.

But apart from the world, there is another world inside you. You can imagine the vast twilight world inside you. Your consciousness is on the edge of the border between the two worlds. The important thing is to establish contact between the outer world of mountains, people, dye factories, and cicada chorus, and the vast world inside you, to create a harmony between the two worlds that stand side by side at a distance from each other. For example, by looking at stars.

 

二つの世界の呼応と調和がうまくいっていると、毎日を過すのはずっと楽になる。心の力をよけいなことに使う必要がなくなる。

水の味がわかり、人を怒らせることが少なくなる。

星を正しく見るのはむずかしいが、上手になればそれだけの効果があがるだろう。

星ではなく、せせらぎや、蝉時雨でもいいのだけれども。

When the two worlds are in harmony with each other, it'll be much easier to live every single day. And then, there will be no need to use the power of the mind for unnecessary things.

You will be able to taste water, and you will be less likely to offend others.

It is difficult to see the stars properly, but if you get better at it, you will be that much more effective. Though it could be murmuring of a stream or cicada chorus, not stars.

 

永遠も半ばを過ぎて

なにかを書こう。なにかを書こうと思うときは、座ってみて、やろうと思っていたことがやる気にならないとき。せめてなにか生産的なことをと思って書いてみることが多い。前回の記事は3か月前。スタバで書いた。今もスタバ。少なくとも週に一度はスタバにいる。家で作業はできない。家では娘に絡まれる。娘の、数時間ぶりに見た時の美しさ可愛さ尊さ、しかしすぐに疲れて一人になりたくなってしまう。マリオワンダーやカービィのグルメフェスなど二人でプレイできるが、基本的に娘一人でやってもらおうと思っている。放置したほうが自分で試行錯誤してできるようになる。マリオワンダーのハナちゃんレース(グルメレースのようなもの)で娘がYが走るボタンであることを知らなくて負けているのを見たとき、Yボタン押しっぱなしで走るんだと教えるか迷って、教えなかった。何度も負けて泣きついてきたら教えてやろうと。そしたら2回目で理解してクリアしていた。俺が思ってる以上にできることがあるんだ。一緒にプレイしていたらもどかしくて教えたくなってしまう。寄り添って、ヘルプがあったときに助けるだけで良い。親はいても子は育つという言葉を昔読んだ。確かに親はいても子は育つ。親がいなければより育つ。だからなにか。なにを書こうとしていたか。そう、家では作業できない。だからスタバに行く。アプリで頼めば二杯目はベンティサイズでも100円。good。どうでもいいか。こんな話は。今は土曜日の朝。平日の怒りがまだ残っている。怒り。怒りではないのか。常に頭に、負の感情がある。頭の中がカユいんだ、そういう中島らもの本があったな。

ただ、こうして生きてきてみるとわかるのだが、めったにはない、何十年に一回くらいしかないかもしれないが、『生きていてよかった』と思う夜がある。一度でもそういうことがあれば、あとはゴミクズのような日々であっても生きていける。だから「あいつも生きてりゃよかったのに」と思う。生きていて、バカをやって、アル中になって、醜く老いていって、それでも「まんざらでもない」瞬間を額に入れてときどき眺めたりして、そうやって生きていればよかったのに、と思う。

 ―――僕に踏まれた町と僕が踏まれた町

確かこの文の前には、生きていてもクソみたいなことばかりだ、大人になる前に、浪人時代に死んだアイツが正しかったんじゃないか、という内容があった気がする。だからこそ、それでも生きていてよかったと思う夜があると言っていることに力がある。ふと、中島らもには娘がいたのかなと思って調べてみた。いた。

1978年 娘誕生時点で中島らも26歳

1986年 頭の中がカユいんだ 34歳(娘6歳)

1989年 僕に踏まれた町と僕が踏まれた町 37歳 (娘11歳)

1991年 今夜、すべてのバーで 39歳(娘13歳)

1993年 ガダラの豚 41歳(娘15歳)

1994年 永遠も半ばを過ぎて 42歳(娘16歳)

2004年 中島らも死去 52歳(娘26歳)

そして2009年に娘は31歳で作家活動を開始している。俺はその2009年に19歳で、学生寮の狭い部屋でガダラの豚を読んでいた。翌日の試験勉強をしなければいけないのに読みふけってしまった。高校のときVIPPERな俺で、永遠も半ばを過ぎてがおすすめされていて読んだ。この本の出版は中島らもの娘が16歳のとき。思春期だから影響受けそう、と思ったけどwikiによるとカズオイシグロの私を離さないでを読んで作家になったらしい。そういうものか。中島らもの、生きていてよかったと思う夜にはきっと娘も含まれていただろう。

スモーキンビリー

誠実であることは大事だが、うまくやることも大事だと学んできている。はずだけど、未だに変に真面目に誠実になってしまっているのかもしれない。今の会社にまともなマネジメントはない。だからすべての指示仕事をこなすことは現実的に不可能。それでもある程度頑張ってしまったり、やろうとしてしまう。自分のキャパの中でできる仕事に優先順位をつけて、できないものはさりげなく捨てる。そしてタスクを増やさないようにしている。これも自分では不真面目なつもりだけど真面目すぎるのかもしれない。仕事はすべてやる前提で、すっきりすべて終わらせることが善であるという考えで仕事をしている。もっとカオスに乱雑であってもいいのかもしれない。会社も社長もルーズで担当は俺一人でだから俺がちゃんとしていないといけないはず。なのだけど、一度決めた俺に不利なルールを俺だけが意固地に守っているような、仕事のための仕事を自分に課しているようなときがある。質の良い製品を納期通りにコンスタントに輸入するために正しくなければいけない。そのミッションは当然大事だけど常に正しくある必要はない。根本を押さえて捨てるところは捨てる。過去の仕事は思い切って捨てる。それが問題になったとしても必要なリスクと考える。

一般的に仕事がキャパオーバーなら、できる仕事をまわりに振るとか、上司に相談して仕事量を調整するとか、人員を増やす提案をするとか、仕組み化できるところを仕組み化するとかあるんだろうけど、仕組み化以外ではあまり実現可能と思えない。ローレベルな会社ではマネジメントや改善といった概念はほぼない。ローレベルな会社だからこそ自分一人が単に頑張ることでこなせることもある。単に頑張るのはバカっぽいけどこれが最適解であることも多い気がする。最近気づいたけどワークライフバランスを意識するとうまくいかない。時間内だけで働いて切り替えてプライベートを楽しんだりできない。バランスを目指して最低限の時間で十分に働こうと考えてもスタンスが落ちて働くのが辛くなる。虎であるかそうでないかが半端なときの方が辛いと李徴も言っていた。あークソ苛つく。仕事で苛つく。でも本質的にはこれは他者に対する不満というよりうまくできていない自分に対するもどかしさ。そこに向き合いたくないので文章にはしない。怒り。ここに対しての対処法の最適解は知らない。最適解ではないけど、運動や勉強などのプラスの行動を取ると救われることがある。殺す。殺す。間接的に殺す。殺す。愛。前職の役員がある社内イベントの壇上で、若いころはぶち殺したいと思う上司ばかりだったよと言って笑いをとっていた。同じイベントで仕事で最も大事なこととは?という質問にフリップに「愛」と一言書いていた。愛、殺す、愛、殺す、愛、殺す、それは両立する。本気で仕事をしているから殺すという気持ちと愛がそれぞれある。愛という憎悪。スモーキンビリー。この役員の人は自分自身の中で愛と殺意を両方持ちながら仕事していたんだなと今になって勇気づけられる。

書き方

報告

正確な報告が必要であるという思い込みは捨てる必要がある。事象をまとめ、提示し、あとは上司に決めてもらうという動きはうまくいかない。100調べて10伝えて、あとは聞かれたら答える。正確な報告も必要ない。バッファをとることが必要。スケジュールの見積もりなら、社内に公表する情報、上司に報告するぶっちゃけの情報(と見せかけた余裕をもった情報)と、自分だけの本当のスケジュールをそれぞれ別で持つ。直属の上司である社長が実務を知らないので、とことんブラックボックス化する。半端な報告で上司を不安にさせる必要はない。

決定

決めることから逃げたがる人が多い。決めると責任が生じる不安から、説明責任を果たす自信がないから、決めることを避けたがる。そのため、仕事がペンディングされたままの状態で残りやすい。それが不発弾となってあとで爆発する。そうならないために決定を下す必要がある。社長の決裁が必要なものなら99%まで骨格を作って最終決定だけ貰う。99%までもっていくためにも決定が必要で、それを率先してやる人間が少ない。事象を提示して終わりという行動をとられると、決めろやという気持ちになる。事象の提示だけでは仕事は進まない。営業部としての意見をまとめるなり仮決定を出すなり仕事を進めてほしい。報告だけで仕事をした気になっている人に苛つきつつ、報告だけして上司に怒られた過去の経験を思い出して申し訳ない気持ちになる。

能力や気質的に弱い人、かつ注意力も責任感も低い人で多くが構成されている会社で、問題が常に発生し続ける構造になっている。誰の何が問題かわかっているのに、こいつが無責任だとか、こいつがバカだとか、わかっていることを何度も思い続けるのは時間の無駄。無駄と思いつつ、帰りの車の中で繰り返し思い続けてしまう。

クソバイス

クソみたいなアドバイスをクソバイスというらしい。前職ではアドバイスの波にうんざりしていたので、この言葉はしっくりくる。今の環境ではクソバイスは少ない。しかし新人がクソバイスされているのは見かける。善意である場合もあるから邪見にすることもできない。無意識なのか意識的なのか別として、あきらかに欲を満たすためのはけ口としてのアドバイスも見かける。それはまさに便所にクソするようなので、クソバイスという言葉はとても直感的に理解できる。

忘却バッテリー

誰から見ても葉流火には才能があった 一瞬でたくさんの人がやってきた 言葉はすべて善意からくるものだったが 非常に無責任なものだった 忘却バッテリー

クソバイスでメモしていた忘却バッテリーのセリフを思い出した。無料だったので先月一通り読んだ。以前読んだときはわからなかったけど記憶喪失という設定の面白さだけじゃなくて、その設定から生じるキャラクターそれぞれの心理描写も丁寧で面白かった。

ブログの書き方について

notionを整理して出てきたメモを羅列してあとからまとめるという書き方にしてみた。書いていて疲れるというか今時点では眠くなってきた。ただ腹立つときとかどうしようもない気持ちの時に吐き出すだけの書き方で十分だと思うけど、notionの整理のときにそのまま思考も整理したほうが有益かと思って試しにやってみた。思考の整理を目的にするとちゃんと論理立てて書かなきゃいけない気持ちになって、そうすると断定的な物言いが増えてしまって、そうするとまたなんか実際のニュアンスと違った言い回しになってしまう。それがいいのか悪いのか。ただ現状だとなにかを書こうと思うときは負の感情スタートからであることが多くて、それはそれでよくない気持ちがある。何に対して?吐き出すことが目的なら別に負だけでいい。いいのか。いやどうでもいいのか。

一度でも我に頭を下げさせし人みな死ねといのりてしこと

おれは結局どこにいても、一定の人間から嫌われてしまう。だいたいの他人の事がうっすら嫌いで、とても嫌いな人間もけっこういるので、そしてそれを隠せないので、人からすぐ嫌われてしまうんだろう。以前は上司や先輩が嫌いで、それでいて、やる気がなかった。いまは、やる気のないジジイババア共が嫌いだ。常に怒りがあることは変わっていない。人間が嫌いなことも変わっていない。ただ今のポジションのせいか、無責任な人間が新たに嫌いになった。やる気のない人間、怒られないことを最優先する人間、視野の狭い人間、嫌いだ。嫌いな人間のバリエーションが増えた。多くの人が嫌いになることはこの糞人間だらけの世界では普通なこと。それでも高級な人は嫌いなカス共を優しく導くことができるのだろう。おれには難しい。経験豊富であるべきジジイババア共がバカか無責任かバカで無責任なやつかしかいなくて、そいつらのミスや、ミスすることもせず動かないことを想定して仕事をして、一段上で仕事しているつもりになっていたけど、やっぱりこの馬鹿どもをコントロールする仕事をしているという驕り、があることによって、偉そうになってしまうのだろう。入社二年目の若造がその態度なのだから悪く言われても仕方ない。そう、気づけばおれはできない人の気持ちを忘れている。営業のころ、おれは電話ひとつスムーズにできなかった。今おれが無能扱いしているジジイ共は、少なくとも電話はスムーズにできている。会社にふと訪れた取引先とも楽しく雑談している。おれが営業のころはそういうことはできなかった。おれができて当たり前だと思うことをこのジジイ共ができないとして、どうしてジジイ共を責めることができようか。もっと優しくならなければいけない。いや、優しくするとつけあがるのだった。難しい。どうすればいいか。いまの時点では、おれは、うまく調整する必要はないと思っている。人間関係を調整するために、人に悪く思われないように考えたり、そういうことは大事なんだけど、大事ではあるけど、大事に思いすぎるとそれに絡まれて動けなくなる。勝手にしろと、嫌いになるなら嫌え。人間関係に捉われて自分を殺すのは転職しない人間のムーブ。おれは気にする必要はない。終わりだと思えば去ればよい。保守的な動きをする年齢じゃない。嫌われても、大事なことをしなければいけない。自分の人生と自分の仕事のために大事なこと。こころよく我にはたらく仕事あれそれを仕遂げて死なむと思ふ。いや、また怒りが湧いてきた。おれに検品をやらせようと画策するジジイババア、おれがおれの仕事をやらなきゃ発注も入荷も全く進まないことをわかってるよな?検品以前に検品しなくて済むクオリティのものを作ってもらわなきゃいけないとわかっているよな?自動的に輸入されて自動的に品質改善されてるわけではないんだよ。目の前の出荷のことはお前らがやれよと、おれはおれの仕事をしないといけないんだよ。このやろう。全体を見ろ。と宣うことはできず、最大の敵であるボスババアにはおれは頭を下げるのだ。話が通じないので従うしかない。天災だと思うしかない。それでもおれの本能は、このボスババアも人間であると知っている。だから糞理論でまくしたてられたときに、従う自分が許せないのだ。一度でも我に頭を下げさせし人みな死ねといのりてしこと。