適用

リモートワークが二ヶ月になろうとしている。だいぶはじめの方から感じていたことだけど、集中できない。パノプティコン的に機能していた上司の目も異動によりなくなった、

リモワになる前、ゲームをせずYou Tubeを見ず読書をして、有意義に過ごせていた。今は完全に崩れた。暇さえあれば福満しげゆきTwitterを見たりして仕事が進まない。とにかく意味のありそうな本を読めばなにかが開けるかと思って7つの習慣や嫌われる勇気などを読んでみたりもして、心にもある程度響いたはずだったけど、今の俺の日々を見ると、うまく取り込めていないんだなと、芯に響いてはいなかったんだなと思う。

やらなきゃいけないことはわかっている。あれをやらなければいけないのだ。わかっている。人に見られながら、監視されながら仕事をするのは苦痛。自分の好きな環境で仕事できたらどんなに良いのに、と思っていた。本当に自分の好きなように仕事をしたらなにもできないんだなと。福満しげゆきはこんな環境でもしっかり描いてて偉いよな。

このままコロナで、世界がだめになってしまえばいいんだが。自分に妻と子供がいてもこんなふうに思うんだから、一人だったら特に思っていただろうな。皆が等しく不幸になるなら楽しいイベントでしかないもんな。ただ最近、もうコロナ以前の世界には戻れないという話を聞いて、まじで?もう普通に外に出ることはできず、常にコロナに怯える世界になるってこと?と、さすがにびびった。そんなディストピアに娘を生んでしまったのかと。ただまあ、コロナでディストピアになったところで、個人レベルで見たらそこまでの不幸じゃないしな。個人の病気や生まれ持ったハンデに比べたら、平均のスペックでディストピアに生まれるほうが幸運だ。そんなふうに個人にとっての影響だけで物事を視るのは、第4~第6の習慣とか、アドラーの共同体感覚を思うと、視座が低いということなのか。

とにかく今はもう、今この瞬間サボりたいという気持ちと、昨日めちゃくちゃサボったことによる罪悪感のふたつが混ざって気分が悪い。それは昨日もそうだったし、かなり頻繁にそうなる。

具体的には、朝まず仕事に取り掛からず読書をして、それからOWのまとめサイトを見たり娘と遊んだりしつつ、散歩にいって帰ってきてから福満しげゆきTwitterを見て、その後メールチェックをした後にニューヨークのYou Tubeチャンネルを見たりして、その後昼飯を食べてから一旦寝て、それから午後の社内会議の準備をして社内会議が終わると散歩に行って、夕方少し早めにご飯を食べて、それからPCの電源をお取り組みありがとうございます。PCの電源を落とすとタイプしようと思って「おと」で「お取り組みありがとうございます。」と変換された。会社PCの弊害。こんなふうにおれも、一秒でも時短できるように工夫した時期があったな。それが今では一日まるごと無駄にしている。ただこれを無駄と言って良いのか。7つの習慣では、緊急ではないが重要なこと、つまり第Ⅱ領域が大切だと、現代人は多忙で緊急かつ重要な第Ⅰ領域や緊急であり重要ではない第Ⅲ領域ばかりをおこない、ある種の忙しさに安心感を覚えていると言っていた。福満や芸人のYou Tubeチャンネルはおそらく第Ⅳ領域だが、読書は第Ⅱ領域だ。いまやっていることが間違っていると誰に言える?俺は仕事らしいことをして安心しようとしているだけなのではないか?辛いと思うことをやろうとしていないか?辛いことが仕事であると思って、辛いことをやろうとしていないか?本当にやるべきことを見ろ。本当にやるべきこととは…と、そんなことを考えながら散歩をしている。この先の、本当にやるべきことというのが、あまり定まっていない。7つの習慣ではミッションステートメントといっていて、同じように、エッセンシャル思考という本でも、本当に重要なことだけをすると言っていた。ただ今Kindleでエッセンシャル思考を開き直して、【エッセンシャル思考は、より多くの仕事をこなすためのものではなく、やり方を変えるためのものである。そのためには、ものの見方を大きく変えることが必要になる。ただし、それはかんたんなことではない。慣れ親しんだやり方(そしてそれを当たり前に思う人々)が、常にわたしたちを引きずり戻そうとするからだ。(中略)エッセンシャル思考になるためには、3つの思い込みを克服しなくてはならない。「やらなくては」「どれも大事」「全部できる」ーこの3つのセリフが、まるで伝説の妖女のように、人を非エッセンシャル思考の罠へと巧みに誘う。うっかり耳を傾けようものなら、不要なものごとの海に溺れることになる。エッセンシャル思考を身につけるためには、これら3つの嘘を捨て、3つの真実に置き換えなくてはならない。「やらなくては」ではなく「やると決める」。「どれも大事」ではなく、「大事なものはめったに無い」。「全部できる」ではなく「何でもできるが、全部はやらない」。】というところを読むと、というか今模写すると、そうだったそうだったと思い出すのだが、ああおれは、このように何かをわかった気になって、、、、研修で覚えなくてはならないことがたくさんあるのに、これは大事ではないなどと切り捨ててあとで困ったりするのだ。世の中をシンプルに切った金言が古典にはたくさんあって、しかしおれはそれらをうまくこの世に適用できないのだ。