この時代

オーバーウォッチのランクマを回し、やっとこさ2000代まで戻してゴールドになったがまた1950に、落ちた。卓球をやっていたときの気持ちを思い出す。一回戦を勝ち抜く力もないのにまじめに打ち込んでいた。目の前の敵にハンマーを振り回すだけで、キルログも見ずシャターを打つようではだめだ。自分がどう操作するべきかではなく、まわりの中にいる自分として、どう動くべきかを考える。

owをしている時間やyoutubeを寝転んで見ている時間は悪で、仕事に向き合ってる時間は善なのか。善を、社会での生きやすさと捉えるならそうなんだろう。でも、実際の世界はそんな二元論ではない。owやYouTubeで稼ぐ人たちが出てきた。陰陽が混ざってきた。愚直じゃない生きたかも俺にできるんじゃないか。俺は効率や合理的という言葉を使うわりに生き方が下手で、卓球もowも映像も下手の横好きでしかなく、仕事もだめ。コンテンツを摂取して語るときに輝くことがあるが、最近はそんな場もなくなってきた。

ファイト戦う君の歌を戦わないやつらが笑うだろう とテレビで最近の歌手がファイトをカバーしていた。俺はばかにして笑った。おれがまさに歌詞に出てくる戦わないやつらだった。しかし俺は何に戦えば良いのか、それがわからなくて呆然と、youtubeを見て、owをして、あとで罪悪感を感じて、何を本当にするべきかと言えば、おそらく仕事を真面目にやることが正しいらしい。けどそれも、真面目に仕事をすることが善であるという空気、イデオロギーにとらわれているだけで、いまのこのAIビッグデータ時代に、かすみたいなデータで課題解決型営業をやることが将来のスキルに繋がるのかと、そんなことを考えて手が止まって散歩などしている。

将来に繋がるスキルを得たい理由は、仕事で認められたい、楽に生きたい、仕事を生きがいにすることで楽しく生きたいなどの理由がある。限られた良いポジションにつくという欠乏マインドではなく、この世界にはみんなが手に入れてもあまりあるほどの資源があるという豊かさマインドか必要であると7つの習慣にあった。豊かさマインドは事実なのか?と疑っている時点でパラダイムがひとつ低次元なのか。

おれのいまいる位置、つまり、この変わりゆく時代に、新しいことを生み出す側ではなく、ただ流される位置にいて、生み出す側のエンジニアにも起業家にもインフルエンサーにもなれない消費者として、生きることは、最終的に俺は満足できるのか?なにかをしたとしても、間違いなく微力である。俺一人の盾管理など関係なく、ピックの不利で負けが決まった試合のように、なにもする気にならない。しかし、インサイドアウトの考え方や、貢献感を幸せとする思想、刺激と反応の間には選択の自由があるなどの感覚が救いになるのだと思うときはある。このあたりを血肉にすれば救われるのではないかと。本を読んでインプットして、この本を読めば俺は救われるのだと、ひとつレベルアップするのだと思って読んで、そのあとも変わらぬ毎日が続く。昔映画をみるときもそんな気持ちでいた。自分を救うかどうか、自分を救わないものなど観ても仕方ない。それならもう麻薬コンテンツを摂取すれば良いと、マックのような、ジャンクフードのようなコンテンツを摂取するだけで腹を満たしたほうがマシなのではと思ったりしていた。している。真理を求める心はやはり俺にもあって、真理を求めて道を誤る人たちの気持ちがよくわかる。

俺はわりとひとつのものにハマらずいろんなものを知りたいと思うタイプで、そういう人は比較的少ないらしい。ひとつのものを身につけないことで、キャラクターとしてアピールできるものもなく生きづらいと思っているけど、そのあたりも長所にできるのかな。俯瞰した言い方しかできない典型的ツッコミ側人間で、痛々しくもかっこいい俺の好きなボケ側の人たちと真逆にいて恥ずかしい。

最近気づいたけど会社の人たちも意外にYouTuberを見ている。見ていて当たり前の時代になった。街並は変化しないがスマホの中がこの10年で大きく変わった。スマホの中だけの変化だが、スマホの中がほぼすべてになった。安宅和人のいうようにたしかに面白い時代に生きている。安宅和人のポジションにいる人なら、この面白い時代フェーズ2で日本をさらに盛り上げることができるのだろう。その人たちはきっと、強い人脈か強い頭脳のどちらかは少なくとも持っていて、新しいコンテンツを生み出したり改良したりしているのだろう(ぼやっとしたイメージでしかないけど)。俺はそのうねりの中にいることはできない。一人一人が輝ける時代になったという。でも俺はガンガン発信するタイプじゃない。興味の幅が少し広い消費者でしかない。一億総クリエイターというなら、もっと、今よりももっと気軽にクリエイト&発信できるようになってくれないかな

目の前の娘の世話や、目の前の風呂や、目の前の飯や、目の前の仕事、をやりながら、コンテンツを色々消費して、ああこんな時代になったんだと驚き、娘が5歳くらいになり、一緒にゲームをしたりできることを楽しみ、仕事ではうだつが上がらず、覚醒コンテンツを頑張って消費しながら咀嚼できず、麻薬コンテンツに逃げ、おれはどうしたら楽になるのかとまだ考えながら、老いよりも劣るスピードで小さく成長した35歳のおれが見える。スキエンティアの短編のように、これから何者にもなれるのは事実。それはわかる。でもなれるというのはcan的な意味で、潜在的になり得るというだけで、…

ちからをどこに向ければいいのかがわからなくて苦しんでいる。もっと力を抜いて、コンテンツを楽しみ、自分の強みを伸ばし、社会でも価値のあるものに変換できると信じて工夫していくことが大事なのではないか。とここに書くことはできる。できるが、日々の中でそれも忘れる。