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白い都のヤスミンカ

 

「嘘つきアーニャの真っ赤な嘘」の三遍目「白い都のヤスミンカ」を読み始める。冒頭ベオグラードについて話すヤスミンカ。

ローマ帝国の版図が広がって行く中で、次第にドナウ河がその北限の役割を果たすようになっていきます。ドナウ河を挟んで、ローマ帝国は異民族と対峙したのです。そのため河に沿って、いくつもの要塞が築かれていきました。ドナウ河とサヴァ河が合流する地点を見下ろす丘の上に建設されたのが、シンギドゥムという名の要塞都市です。バルカン半島の交通、戦略上の要衝として広く古代社会に知れ渡っていたようで…」一旦本を閉じ、GeaCronを開きローマ帝国の年代ごとの領土を調べて、三年ぶりくらいにmanaveeの可愛いカレン先生の動画を見直し、マクニールの世界史を3ページくらい読んだ。

旅のラゴスの影響か、一瞬知識欲が刺激されて歴史を調べることが増えた。聞きなれない言葉(フェニキュア人、アナトリア半島など)をいちいち調べるググり連鎖に疲れまたヤスミンカに戻る。知識欲だけが落ち着き、知識は少ししか増えない。

「白い都のヤスミンカ」を読み終えて、そのあとに米原万里が東欧諸国を訪ねるドキュメンタリーを見つけた。1992年撮影のドキュメンタリー。2001年に「アーニャ」出版。「アーニャ」の中の再会はすべて撮影されていたのか。本の中ではそんなことまったく書かれていなかった。米原万里は肩パッドのようなものをしていて平野ノラに見えて滑稽だった。本の中のように感傷的には見えなかった。喋りが演技っぽくて、再会もなんか地味だし「アーニャ」の中を真実と思って読んでたからか、ドキュメンタリー見てがっかりした。「アーニャ」の中でミランクンデラの名前が出てきて、存在の耐えられない軽さの中でサビナが

「サビナにとっては真実に生きるということ、自分にも他人にも偽らないということは、観客無しに生きるという前提でのみ可能となる。我々の行動を誰かが注目している時には、望むと望まないとにかかわらず、その目を意識せざるを得ず、やっていることの何一つとして真実ではなくなる。観客を持ったり、観客を意識することは嘘の中で生きることを意味する。サビナは著者が自分や自分の友人のあらゆるプライバシーをあからさまにする文学というものを断固として拒絶する。自分のプライバシーを失うものは、すべてを失うと、サビナは考える。そして、それを自分の意思で放棄するものは異常である。そこでサビナは自分の恋を隠さねばならないことを苦にはしない。逆に、そうしてのみ「真実に生きる」ことができるのである。」

と言っていたのを思い出した。「アーニャ」は書かれたもので、観客の目を意識してるから真実ではない。米原万里とヤスミンカの再会もカメラに撮られて、観客を意識しちゃってるからこれも真実ではない。カメラがなくてもやはり誰かに向けて演技してる状況が普通だし、そしたらもう、何が真実?みたいな感じで、なんか書くの面倒だな、まとまらないんだから適当でいいんだけど、ちゃんとまとめて書こうとしてる時点で俺も観客意識のからくり心働いちゃってるし、難しい

自分の知らない文化、ユーゴスラビアとか、理解するのはもう、米原万里みたいに海外で過ごした経験とか、言語とか、わかってたほうがずっといいし、それどころか歴史も全然勉強してこなかった俺に今更そっち理解するの無理だし、ちゃんと勉強してきた人ですら歴史の全部知るの無理だし、旅のラゴスラゴスでさえ地球の歴史知るのに数年かかってるし、ていうかラゴス凄くないか10年以上かかったとはいえ別の星の文化一通り身につけてるし、そりゃモテるわなって感じなんだけど、俺は黙ってもういっそ、近くの文化だけで満足して、海外とかそっち無視して、それどころか東京の文化も無視して三条新聞だけ読むローカルジジイか、ジモティー愛に生きるのがいいのかもしれないけどそっちの道ももう絶たれてるし、生き辛い。

カレン先生が可愛い

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嘘つきアーニャの真っ赤な真実 (角川文庫)

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