惡の華

出たー、いつものやつ。読み終わってから、するすると抜けていく。読んでいる最中から高まっていたものが、さらーっと消えていく。

17.5歳のセックスか戦争を知ったガキのモード風に言うなら、「瞬間的に熱しすぐさまに忘れ去られ」ている。あのブログの「観たアニメは忘れましょう。でも培った技術とモードはそのままに」という決まり文句が思い出される。

惡の華、五巻までは読んでいた。2012年1月に初版ということだから俺が大学3年の冬に読んだことになる。あの東武練馬のTSUTAYAのできたばかりのレンタルコーナーで。きっと帰り道は駅前のマックでチーズバーガーを買い、横のローソンでコーラを買ったんだろう。あれから四年後の今、はじめて最終巻まで読んだ。

リアルではない、ように感じる。ていうか春日、悪というよりむしろ純粋なのでは。少なくとも性欲に負けてるところをほとんど見たことがない。仲村さんに対して踏みとどまるのはわかる。童貞にとって、楽しいかどうかもわからないセックスなんかより、大事な人を傷つけないほうが大事。安牌。

そんなことが書きてえわけじゃねえんだけどな

クソのような閉塞感、というリアル

そこに現れる天使、という非リアル

古谷実に通じる、いや、花沢健吾NHKにようこそ、その他すべてのこのジャンルに通じる。作者が体験してきた閉塞感、劣等感、自分だけが特別なんだという意識。その生活の中での妄想。実体験というベースに妄想をブレンドするとこのバランスになる。どこまでも続く腐った現実の中に現れる天使という非リアル。もし芸術に両端があって、その高い端にはシャンペンの世界が、低い端には乳首をいじくりながらのオナニーがあるとすれば、惡の華はその低い端の極点は掴んで高い端には足りていなかった。非リアとリア充を結ぶ一本の線の端と端を行き来したことのある人しかそういう作品は作れない。クソのような現実の先の、天使のいる生活の中にもクソはある。そういうものを描ける人は…いるのか?

木尾士目か、新井英樹か、福満しげゆきか、村上龍か、みんな間違いなく幅は広いけども

極点から極点までのやつじゃないと、非モテが美女と出会って幸せになりましたストーリーを素直に受け入れられない

命令してくれる人がいることの喜び

クソ田舎の閉塞感、置いてけぼり感

何がよかったか書きだそうとしている。パラパラめくって、やっぱいい漫画だったなと思いだす。でもそれを言葉にできない。リアルじゃない部分があるからって、名作じゃない芸術じゃないなんて言わなくていい。リアルな場面、きらめく瞬間は確実にあった。いい漫画だった。

すごくいい体験をして、でもそれを忘れてるっていうのは夢に近いじゃん。朝起きてすごくいい夢、というか、すごく広い世界長い時間があったはずなのにそれを忘れているのと同じで

虚無感を感じる。何も残っていない。読んでいた瞬間にしかない。現実の関係に影響を与えない。物語が心に残っている、というわけでもない。それがいやでせめて写真を撮ったりしてたんだ、読んだ漫画の。いや、現実だって、忘れるのが嫌で写真を撮っていた。プリクラが好きだった。やっぱり漫画のレビューは書けない。話がそれる。

中村さんと常盤さんと春日の三人で海で暴れるところ。話は面白いけど、絵が生きてなかった気がする。作者自身をがっつり乗せた漫画だからこそ、登場人物の幸せを優先して物語を作ってしまったんじゃないか。海で暴れる直前の、中村さんの上向いてる顔はよかった。

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 東武東上線ってのはやっぱり、なんとも言えんよな。池袋があって、そっから伸びてるせいで埼玉の田舎感が際立っちゃうのかもしれねえけどさ。惡の華の舞台の群馬とかさ、その奥の新潟とかと比べたら埼玉は都会だよ。埼玉人の田舎話とか埼玉自虐とかイラってえんだよなって何度も言ってたな大学時代。グーグルマップで航空写真みてみろや。書かなくてもいいどうでもいい話をな、続けてしまうわ。まーた、日曜休み一回とかかんべんしておくれよ。何のために生きてるんだい。東武練馬が恋しい。半端な都会は楽しいよ。夜起きて夜TSUTAYAに行って朝まで漫画読んで昼に寝てまた朝に起きたい。ファスト風土の田舎はクソだけどファスト風土の準都会はいいよ。美しいよ。美しさは正義なんだよな。仲村さんも、美しいんだから、客観的に肯定されてしまうよな。人の人生を客観的に、物語的に見たときに、やはり美人は何をやても物語として成り立っちまうんだよな。ブスは、やっぱり悲しい。