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こころ―キラキラに対する恐怖と崇拝

「それほど女を見縊っていた私が、またどうしてもお嬢さんを見縊る事ができなかったのです。私の理屈はその人の前に全く用をなさないほど動きませんでした。私はその人に対して、ほとんど信仰に近い愛をもっていたのです。私が宗教だけに用いるこの言葉を、若い女に応用するのを見て、あなたは変に思うかもしれませんが、私は今でも固く信じているのです。本当の愛は宗教心とそう違ったものではないという事を固く信じているのです。私はお嬢さんの顔を見るたびに、自分が美しくなるような心持がしました。お嬢さんの事を考えると、気高い気分がすぐ自分に乗り移ってくるように思いました。もし愛という不可思議なものに両端があって、その高い端には神聖な感じが働いて、低い端には性欲が動いているとすれば、私の愛は確かにその高い極点を捕まえたものです。渡すはもとより人間として肉を離れることのできない体でした。けれどもお嬢さんを見る私の眼や、お嬢さんを考える私の心は、全く肉の臭いを帯びていませんでした。」

ブンガクという偉そうな遠いものが身近に感じる。曖昧に感じていた感覚を言葉にしてくれている。前読んだときは全く気付かなかった。あの美しい蘇美(仮名)に俺は宗教心を感じていた。アイドルは宗教であるとか誰かが言っていたけど、それもそういうことだよな。宗教の綺麗な面。問答無用で崇拝してしまう何か。蘇美が笑うとキラキラが見えるようだった。「先生」と違うのは、俺の愛は高い極点ではなく肉の臭いも帯びたものだったこと。蘇美の顔を見るときに、そのキラキラに殺されそうになったこと。俺は「先生」より汚れている。

 

「私はこの誤解を解こうとはしませんでした。都合の好い仮面を人が貸してくれたのを、かえって仕合せとして喜びました。」

部活にやつらが俺をヤリチンだと勘違いしてくれたとき、ありがたいと思った。ただのダメ人間じゃなく、女をたぶらかすダメ人間としてくれたほうが心持が良い。そういう状態をなんというべきか適切な言葉を探したか探さなかったか忘れたけど、これがぴったりあてはまる。都合の好い仮面を人が貸してくれたのを、かえって仕合せとして喜ぶ。こういう、状況や感情を、真似ではなくオリジナルな表現で適切な言葉を選ぶファインプレー。そういうのが連続でくる。人が夏目漱石をありがたがる理由がよくわかる。

 

「ありがとう、と小田桐はそいつが通路に言えていくときに行った。星と濃い灰色に煙っていく東の空を見ていると、突然涙が出てきた。これから処刑されるという恐怖のためではなかった。あの、かばってくれた二十歳そこそこの若いゲリラ兵士が敬礼して去っていくときに、なぜか母親のことを思い出してしまったのだ。それは全く突然の、説明できない不思議な感情だった。父親が言うように、母親は他に男を作って自分を捨てたのではなく、この、残酷だが単純で、曖昧なものが全くない世界へと移っていったのではないかと想像してしまったのだ。あり得ないことだ、とよくわかっていた。でもオレがこうやってまぎれ込んできたのだから可能性がないわけではない、あの、水を飲ませてくれたゲリラ兵士の顔、あんな顔をした若い日本人を小田桐は知らなかった。真剣で、イノセントで、ある部分はひどく老成していた。じっと見つめられるとこちらが気恥ずかしくなるくらい、目が輝いていた。プライドに輝いていたのだ。何のために生死を賭けて戦っているのか知っている目だった。オフクロは人間のクズの最低の女ではなかった、処刑される前にそう思おうと決めると涙が止まらなかった。オフクロはああいう目をした男達のところへ行こうとしたんだ、それだったらよくわかる、オヤジもオレもあっちの世界に住んでいて、あんな目をしている男なんか一人もいなかったからだ。」

小説を一部だけを読み直している。一冊通して読み直すのは疲れるしノルマに感じる。二度目三度目なら一部だけ読み直せるし、そういうときにはじめて良さがわかる箇所がある。英語の勉強から逃げて、こころと五分後の世界の一部を昨日読み直していた。五分後の世界の模写はいらなかったかもしれない。敬礼を見て関係のない母親を思い出すくだり。じっと見つめられると気恥ずかしくなる目の輝きでまた蘇美を思い出す。

蘇美のことをセンチメンタルな良い思い出にしようとしている。14,5の中学生に心惹かれていたなんてロリコンで片付けられてしまう。蘇美が今も勉強をして学校生活の中で成長をしていると想像すると、俺も立ち止まってはいられないと、勝手に勇気づけられる。先生の立場だった俺は何かを与えられていないというのに、どこかで戦っている同士のような役割を勝手にあてはめている。性欲の対象でもあり信仰の対象でもあり…言葉が出てこない。もう会うことがないのも相まって本気で宗教的になってきている。色んなもののイデア。アイドル。実際の蘇美を見ず勝手に神格化していた当時よりもさらに都合の良い存在にしている。母親を都合の良く考える小田桐と同じなのか、それよりもっと薄いか。蘇美が教室に入ってきて「こんにちわー!」と言った瞬間教室全体が輝いたことが何度かある。それに言葉をつけようとすると恋とかロリコンとかろくなものにならない。ただその体験その風景が大事で言葉をつけてはいけない。とりあえず書き進めてきたけどどこまで本心で書けているのかわからない。まとまらないのはいつもと同じだ。夏目漱石の文章力が一度俺に宿って蘇美について書いてくれたなら暗唱できるまで読み込むのに。