何かが済む

仕事帰りゲオで、花山対スペック戦をもう一度読もうと思ったけどバキはレンタルよりネカフェで読んだ方が良いと思い直した。なぜ今ブログを書き始めたのか。テキストを開く気が起きずに風呂上りボーっとしていた流れで

いや違う。今日は仕事のことを書こうと思った。でもやめた。仕事のことを書くのを避けている。今の会社で仕事をしている自分と今までの自分を別の人間として扱い続けるためには仕事のことをブログには書けない。

それでも、夜のLINEの続きが翌日昼仕事中に始まったとき、昼休みにまなめはうすを見てしまったとき、外出中リスニングを聞いたとき、会社での自分と、いままでの自分が繋がっていく。

指示をうまく受け取れなかったとき、自分は悪くなかったと納得するための理由探しをしてしまう。どう反論すればよかったのかとか考えてしまう。ミスしたとき、それを言わないでおこうとか考えてしまう。嫌われたくないの感情が出てきてしまったからだ。すべて無視でいいんだ。自分がどう思われるとか自分が正しいとか間違ってるとか。

五分後の世界の小田桐が時計を進めたときのように、ここで生きることを決める日がくるかもしれない。TOEICの点を上げて転職をしなくてはいけない。

家族や友人に、そして、ブログに書いたりして英語を勉強していることを発信してしまっている。何かが済んでしまう。死なないために英語を勉強している。詰みでないと信じるための唯一の希望。7月で475点、9月で635点。転職のためには700点。11月の本番で700点。

くそが。メイン武器として英語を使ってないのに700点以上のやつなんて腐るほどいる。優等生共がぶっ殺すぞ。学生時代から勉強してんじゃねえ。社会で通用し得る俺の唯一を軽々超えてるやつがいる。いるらしいが見たことはない。低学歴の世界しか知らない。架空のそいつらに嫉妬する。

殺すという言葉を通勤中、あのローソンを通る辺りで、心の中で音読してしまう。誰をだ。特定の誰を殺すとかじゃない。何を殺すんだ。自分でわからない。気合いを入れるためなのか、自分の自我を殺すということなのか。通勤中の勃起も謎だ。無意識に死を感じているのか。

IN MY HEADの殺すや英語のもがきや自我のことを書くことで何かが済んでしまうのが恐い。