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小説のラストについて

映画と違って小説はいつ終わるかがわかる。映画は予感はあるにしても、スパっと暗転して終わって、そのあとにさっきのシーンがラストだったと気付く。小説はページをめくったあとの白地の面積でラストだとわかった上で読んでいく。

漫画は連載で読むか全巻一気読みかで読むかで違ってくる。スラムダンクを連載で読んでた人は突然の終わりに驚くけど、一気に読んだ人は、山王戦で終わりなんだと気付いてくる。

叙述トリックの種明かしみたいな、殺戮に至る病みたいなやつじゃなくて、ラストのページで見えてなかった何かを見せてくれるような小説が好きだ。村上春樹のラストは夢から現実に帰ってくるようなラストが多くて、主人公と一緒に読者の俺も現実に戻ってきたあとでボーっとするような読後感。重松清も好きだけど、重松はマイナススタートからの、最後に少しだけ上向きになるエピソードが入るようなラスト。

村上龍の5分後の世界のラストが好きだ。

「小田桐はミズノ少尉の頭を支えながら脇の下に手を入れて体を支えた。ジープの音がかすかに聞こえ始めた。ミズノ少尉は立ち上がった。小田桐は肩を貸し、フルオートのグレネードランチャーとミサイルを自分で持った。暗闇に向かって歩き出す。生きのびるぞ、と小田桐は思った。オレも死なないし、こいつも死なせない。

『今、何時だ?』

とミズノ少尉が聞く。小田桐は、九時十三分だ、と答えてから、時計を五分進めた。」

この、打ち切り感ね。本棚から引っ張り出してきてタイピングして思った。これは全く通じない。打ち切り感と言っても通じない。五分後の世界に迷い込んでしまった小田桐が最後どうなるのか、想像しながら読んで、なんで最後の第八章のタイトルが「非国民村」なんだ?普通「脱出」とか「生還」じゃないのか、なんて思ってた。いや違うんだこれは、ずーーっと続く小田桐の五分後の世界での人生の一部でしかないんだ。とりあえず、小田桐がその決心をした瞬間の動作を区切りに物語を終えただけなんだと、それがわかったときに、感動してしまったんだと絶対伝わらないとわかりながらも書いてきたけども、何度も自分に言い聞かせてるようにこれは自分のために書いてるんだから伝わる伝わらないはどうでもいいんだ。

そもそもこの記事を書きたいと思ったきっかけの狭小邸宅のラストも、今見返して全然伝わる感じじゃないって気づいた。つうか物語って基本そういうもんじゃんか。「人生って素晴らしい」とか「努力は裏切らない」とかそれだけ聞いてもしょうもない言葉でも長いお話の先にその言葉があると重く見えるってやつが物語の意味だし最後だけ抜き取ってもなんにもならん。「勉強しろ」と強く言っても言葉でしかないから絶対に伝わらないのと同じだ。真実だからといって自信をもって「勉強しろ」と言うのは意味ない。物語をつけないとだめなんだ。親も教師も。だからラストだけ切り抜いても伝わらない。でもブログでは伝わらなくても問題ないんだから書けよと思うけど模写だるくなってきた。フラニーとゾーイーの太っちょのおばさまについてのラストのあの、そういうことか!!ってわかった感を今読み直しても全く思い出せない。悟ったかのような感覚があったはずなのに。フラニーとゾーイーみたいな背伸びしたやつじゃなくて普通に西の魔女が死んだのアイノウみたいなラストも普通に大好きなんだけどあれは文学的よりもグッとくる文法おさえてやがるみたいなやつだから挙げるのは悔しい。叙述トリックでもなくグっとくる文法おさえてやがるやつでもなくほんのり優しい重松節でもなくモヤぁ~っとした世界に留まるか去るかする春樹的なのでもなく、俺が求めてるのはそう何か、今まで読んできたその物語に意味を付け直すような、そうそれはまさしく繰り返される諸行無常向井秀徳が喋ってるような感覚でタイピングをしている。今。そう。やがて哀しき女の子のラストを、ラブ&ポップのラストを思い出しながらそれを模写したあとに必要なはずのそれについての自分の意見を書ける気がしねェーーので、どうしようかと思っている。俺の目の前にはパソコンがあり左にはフラニーとゾーイー、その上に五分後の世界、奥には塗り薬の合成樹脂の容器が5つ、パルミコート、右には割れたiPhoneとその先には窓があり俺は一旦公開するボタンを押して煙草を吸ってみよう。