うみべの女の子

デッドデッドデーモンズデデデデデストラクション(デデデデ)三巻の出元亜衣はブスなモブであったはずなのに、個人としての顔、姉としての顔が出てきた瞬間に反転して美しくなる。現実では見たことがあるけど、漫画でははじめての体験。漫画やアニメの萌えの文法としてまだ確立されていないんじゃないか。

真夏の自転車を漕ぐ女子高生や、眼鏡を外した瞬間や、髪をかき上げる動作など、現実の現象が萌えとして文法になる。「姉の顔」という文法はこれからか。

 

雨の中叫ぶ女の子という文法もあるか。デデデデ三巻の流れでうみべの女の子を読み返した。

Twitterで後輩が、最終話を読んで、小梅をクソビッチと言っていた。それは違うだろう。絵と物語で伝わってくる感情がある。セリフで説明するところしないところのバランス。小梅の中に磯辺は残ってるはず。それでもどの程度残っているのかわからない。わからないところもある。夕陽を見てるときの小梅の表情も読み解ききれない。現実だって、神の視点である人をずっと見ててもその人の感情は読み解ききれないはず。良い漫画はそれでいい。わかんなくていい。

浅野いにおを好きって言うのは恥ずかしい。いや以前まで恥ずかしかった。うみべの女の子でもうそのダサブカルの壁を越えて、デデデデで完全に漫画史に残る作家になった。(それでも昔の名残でまだ好きだというのは恥ずかしい。)

 

Oにうみべの女の子を貸した感想は、「どうでもいいことで悩んでるようにしか見えない」というものだった。Oは童貞で、恋愛イベント無しだからそういう感想になる、と言いたいけど、俺だって中学の時に、どころか、今までずっと涙する恋愛なんてしていない。中学であんなセックスできるなんて羨ましいし、知らない世界だ。とおーーーーいところの話なのに、ましてや俺は女じゃないし中学生じゃないしセックスするだけで好きになったりなんかしないのに、小梅に共感してしまう。

浅野いにおはどんどん洗練されていく。花沢健吾はどんどん陳腐になっていく。同じ時期同じ雑誌で同じように写実的な背景を描く漫画家だったのに。

 

雨、紙袋のデザイン、表情、文化祭のTシャツ。統一感はないはずなのにこの絵は完璧に見える。

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喉のヒューヒューで現実を思い出す。タイピングしながらうみべの女の子の世界を忘れていく。明日は午前会社を休んで病院に行く。久々の喘息。手には原因不明の水疱。アトピー

体調が悪くなると、会社の人たちにどう思われてるとか、あそこであんなことは言わなければよかったなとか、そういう気持ちがなくなる。諦めが生まれて楽になる。楽に喋れるようになる。諦めは自然体を生む。磯辺も諦めがあるからこそ小梅のような綺麗な女の子と対等に話せる。諦めがあるからこそ今後を考えずに会話できる。