夕方16時、病院の駐車場で

現実を見ろってのはだいたい辛い現実に向き合えって意味で使われる。外は暑くて蝉が鳴いてて、市立病院の駐車場のコンクリートの隙間から草がたくさん生えてる。この風景と暑さと蝉が、家の中よりは現実って感じがして、ちゃんとレールに乗ってる感覚がある。
貧乏とはただ単に金がないことじゃなくて、無い上にさらに取り立てられたり、無いものを剥ぎ取られたりすることだと五味太郎がいっていた。
MTの免許を取っている。求職のために。夏休みで人が多くて、なかなかコマが入れられない。覚えたクラッチ操作をすぐ忘れる。必要なコマが増える。一度につき5500円かかる。金がないのに取り立てられる。
誰だったか、女の人のエッセイで、役所が何かの手続きで、札を貰ったけど自分の番号が呼ばれない話を思い出す。なんで自分の番号だけ呼ばれないんだろう。よく見たら自分の札の色だけみんなと違う。自分だけ何かが間違ってるんじゃないか。自分より後に来た人が先に呼ばれる。それは人生でずっと感じてきた感覚だったってやつ。ベストエッセイ2014の一番最初の話だったかな。
自分だけ間違った札を渡されているんじゃないか。でも確かめる方法がない。ただ待つしかない。状況がわからず、やるべきこともわからず、ただ追い越される。
ちーちゃんはちょっも足りないのナツはいつもフェンスの近くを歩いている。それは、あっち側の世界が見えるけど、見えるだけで、行けないという暗示らしい。あっち側が見えてしまっているから辛い。ちーちゃんはこっち側で、あっち側を見ることもできないから、思い悩んだりしない。
あっち側が見える目を持ちながら、流れ作業で延々と鋏をプレスしていくことは俺にはできない。その現実は見たくない。
俺は今暑い病院の駐車場でブログを書いているの。さっき帰宅したのにわざわざ外に出た。暑いほうが現実って感じがする。ここは退屈迎えにきての中の、やがて悲しき女の子で、みなみが「もう立ち止まって思索的なことに思いを巡らすこともなかった」ってのはハッピーエンドということでいいのかな。状況はハッピーになってるけど、なにか寂しい気もする。
自分の本来の姿を、自分のキャパを超えたところに設定してるから、どっちに転んでも辛くなる。設定を下げる必要があるんだろう。ほんとにそれでいいのかわからない。
村上龍ハバナモードの、「なんとかなるだろうという曖昧でポジティブな前提とこのままではどうしようもないという絶望の同居」っていうのがしっくりくる。しっくりくるというだけで役に立ってるのかわからない。借りてきた言葉の防具で自分を守りたいけど使い方がわからない。
色々選んだり一口食べてみたりぼーっとしたりしてるうちに選択と集中をしてきた人がずっと先を歩いてる。好きなように生きてるうちに追い越された。好きなように生きてるように見えるのにずっと先を歩いてる人もいる。
さすがに暑くなってきた。ユニクロのえんじ色のシャツが汗で濡れてる。
えんじ色は好きな色だ。黒とよく合うので、黒ばかり選んで黒ばかり増えていくオタク特有のセンスと相性が良い気がする。
蝉が頭を上をかすめて飛んでいった。ブオオォンという蝉らしからぬカッコいい音で飛んでいた。よだかの星のよだかも、飛び方と声はカッコよかったんだよな。それでいて誇りもある。
思ってることを言葉にしようとしても全然うまくいかない。まだ現実に起きたことを書いてるほうがマシだ。「こう思った」っていうのがなくても、正確に起きたことを書けば読み取れるものがある。つげ義春のやなぎ屋主人で最後猫と戯れてるシーンのように。
かといって風景が変わらない。たまに蜂とか蝉とか蝿とかがきて、煙草の吸殻が増えるだけだ。いい加減家に帰ろう。