ソロモンの偽証 書評

ソロモンの偽証には読み取るべきことがすべて書いてある。だったら映画でいいじゃないか。それだけ面白くても、全部書いてあるんならスゴイ脚本でしかない。文章でしかできないことをやってない。村上春樹村上龍重松清も文章でしかできないことをやっている。漫画も、映画も、その媒体でしか表現できないことをやっているものが好きなんだ。だから原作至上主義になるんだ。小説ならラブ&ポップのインペリアルトパーズが欲しい理由とか、アニメなら響けユーフォ8話の山のシーンとか、映画なら花とアリス蒼井優とか。

みんなが自分の考えで動く中で物語がどんどん進む話、刻刻とか好きなんだけど、ソロモンの偽証はみんながそれぞれの考えを持ってるはずなのに、後半から一匹の生き物みたいになって、決まったゴールに向かって進んでいくように見えた。伊坂の本みたいにコマと化していった。

つまりこれ、ポリフォニーじゃない。鈴木先生に先を越されたとはいえ、生徒の裁判とか、それぞれの人格とか、明らかにカラマーゾフの兄弟を意識してたのに、後半から伊坂化。カラマーゾフを意識してることがわかってから、アリョーシャの悪落ちを代わりにやってくれるんじゃないかとか、色々期待してしまった。

それぞれのキャラ付けの段階の第一部はかなり面白かった。そのあとは映画でよかった。レンタルはよ

重要人物の不在っていう点では桐島、リリイシュシュ、キサラギあたりが思い出される。桐島もリリイシュシュも原作微妙だったから、群像劇は映像向きなのかもしれない。

第一部は間違いなく面白かった。14章の柏木功子、そのあとの森内先生のところなんか最高だった。

中学生の頃の、ランクや成長の差によって友達を鬱陶しく思い始めたりする、小学校とは違う気持ちの変化、そういうのが好みかもしれないと思った。Oに貸す漫画を選んでいるとき、10代が、特に中学生が主役の漫画ばっかり持ってることに気付いた。無意識にそういうものを集めてたのかもしれない。R-中学生、うみべの女の子、ぷらせぼくらぶ、ちーちゃんはちょっと足りない、モテないのではないモテたくないのだ、鈴木先生ハイスコアガールひばりの朝

漫画は思いついても、映画は思いつかないのは、中学生役ができる力のある役者をそろえるのは大変だからか。そう考えると金八先生はよく頑張ってるな。

鬱陶しく思ったり、自分が鬱陶しく思われたり、コミュニティの中に入ろうとしたり、コミュニティの中に入れないようにしたり。ソロモンの偽証を読んでそういうことを思い出した。そのときは序盤で、全く話の流れをわかってなかった。後半のミステリーの答え合わせのところよりも、前半の中学生のそれぞれのほうがずっと良かった。

メモした文

第一部p.156

涼子は、章子のこれまで知らなかった一面を見ていた。このエピソードを語る章子は、ただの中学二年生には見えなかった。大人びているということではない。自身の中で真剣に向き合わねばならない何かを見つけてしまった者の顔だ。そこに大人と子供の線引きはない。

第一部p.319

幼さは、若さは、すべて同じ弱点を持っている。待てないという弱点を。事を起こせば、すべて結果を見たがる。人生とは要するに待つことの連続なのだという教訓は、平均寿命の半分以上を生きてみなければ体感できないものなのだ。

 

 

ソロモンの偽証 第I部 事件

ソロモンの偽証 第I部 事件