加藤智大クンデラ

一冊の本が読めない。飽きる。読んだ後に何も残らず、読んでる間も苦行に感じる読書ならシコってるのと同じだ。シコってるほうが最中楽しいからそっちの方が有意義か。刻刻とか進撃の巨人みたいに読んでる間だけ楽しい漫画読んでる方が義務感での読書より優れてる。それでも勉強の合間に読む読書は好きだ。一冊読むつもりじゃなく一度読んだ本、読みかけて途中でやめた本の一部をちまちま読む。

どんどん話すための瞬間英作文が平坦な文章ばかりで飽きて、会話できる英文法大特訓にシフトしてUnit10までやって、それでも飽きて本棚を漁った。ミランクンデラの存在の耐えられない軽さ。111ページで栞が挟んだままになっている。栞っていう名前っていいな。でもカオルの元カノの栞はブサイクだったな。綺麗な名前はギャンブルだ。

存在の耐えられない軽さ。冒頭3ページまでが面白い。その面白さを期待して先読み進めてもピンとこなくてやめたんだった。永劫回帰が存在しないことを前提としたこの世界では、すべてが軽い。らしい。繰り返されるのなら悪はずっと悪、善はずっと善だけど、繰り返されないのならすべては軽い。恐ろしさも美しさも無意味なものになる。「消え去ろうとしている夕焼けはあらゆるものをノスタルジアの光で照らすのである、ギロチンでさえも」が気に入った。筆者はヒトラーの写真で感動した。それに対してヒトラーに殺されたたくさんの人は筆者を感動させなかった。

秋葉原の加藤智大は、人を殺さなかったら、ただ辛いだけな無意味に人生を続けそのまま終えるだけだった。人を殺したからこそ色んな人の、俺の記憶に残った。加藤と同じ境遇の、学生時代から虐げられてきて今もフリーターやってる未来永劫不幸せな童貞の非リアたち。そいつらはヒトラーに殺された大勢と同じように誰の記憶にも残らないのに、加藤智大は記憶に残る。永劫回帰がないのなら、どんな人生も一度で永久に消えてしまうのならすべては軽くてすべては許されてるんじゃないか。そういえば一巻でやめた罪と罰でもラスコーリニコフが、カラマーゾフの兄弟ではイワンが似たようなこと言ってたな。神がいないならすべては許される的な。

色んな小説に答えが書いてあるんだろうけど、もう語りつくされてるのかもしれないけど、ああわかんない何が書きたいのか。加藤にはあれしか救われる道はなかったんだと思っている。終わりまでみじめな人生続けたりみじめに自殺しても救われないけど、連続殺人ではある意味救われる。辛すぎる人生を頑張って生きても誰も見てくれないけど人を殺せば見てくれる。それでも殺すなっていうのが無難に正解なんだろうけど。その答えのために罪と罰読むのはだるい。本は読めない。途中で義務感に変わる。こうしてちょこちょこ一部だけ読んで考える方が楽だし面白い。ショーペンハウエルも言っていた。読書について。思索のための読書。風にあやつられる火のように。思索史上主義だと思いて学ばざれば即ち危うし的になるからよくないか。俺は考えてばっかりで実学勉強してないからだめなんだって反省したばっかりだった。いや違う。映画見てばっかりで勉強してないからだめなんだって、だっけ?わかんない。整理がついていない。ショーペンハウエルのいう読書はインプットで思索はアウトプット。俺の映画見たりするのはインプット。勉強もインプット。あれ。今色々考えてるのがアウトプットか。でもこういう整理のついてないアウトプットに意味はあんのか。だったらインプットのほうが実際積もっていくし意味あるんじゃないか。だったらショーペンハウエルと逆か。ブログ書いてればこれも積もっていくからいいのか。ヤベエ全然だめだ。一応勉強を一番に考えておこう。そんで義務的になる読書よりは一部読んでちまちま考える読書を大事にしよう。勉強飽きたらそっちやる感じでいこう。どっちにしろグダグダニコ生見てるよりはプラスだ。みんなこんなにぐだぐだ考えて時間潰してしまうのか?統一教会の二世に高学歴が多いのは考えることをすべて他人(原理講論や教祖、講師)にまかせてひたすら突き進めるからなんだと思って嫉妬をごまかしていた。整理がついててもついてなくても回帰無しで消え去るなら背信の二世の俺も盲信の二世もノルタルジアの光で照らされて最終的にはまぁまぁヨシてな具合になるか。