知りません。私が弟の番人でしょうか

四日前木曜、眼医者のあと歯医者までの間の空いた時間、本屋に寄った。モーニングヤンジャンチャンピオンはすでに読んでいた。アフタヌーンではぷらせぼくらぶの奥田亜紀子の短編が載っていた。横に青年誌を立ち読みするJKがいた。やはりブサイクだった。青年誌を立ち読みするJKはブスだ。

そこで見つけたカラマーゾフの妹を立ち読みして買って歯医者行って読んでホワイトニングして、家で読んで飽きて、今日読み直して、割とおもしれえなって思って一気に読んだ。アリョーシャがマジで革命起こそうとしてるとこが良かった。あの優しいアリョーシャが革命起こすなんてなかなかイメージできない。やさしいアリョーシャの延長線上に革命家アリョーシャがいるってことをうまーいこと書いてくれてるわけじゃなかった。あのくそ長くてつまらん原作カラマーゾフの兄弟を頑張って読んだわりに何の見返りもないじゃねえかっていう、苦行に対するご褒美を求める態度があって、そういうやつはたぶんたくさんいて、そういう、俺のような読書家気取りしたかったやつらがこぞって買うだろうなと思った。

まぁまぁ楽しんだつもりだけどアマゾンのレビューみたら酷評だらけだった。それにつられて、俺もあんまりおもしろくなかったかもななんて思い始めた。レビューを見るとそれに流されてしまう。

少女らしくにっこりとほほ笑むのではなく嫌味な中年男のようにニヤリと笑う少女エイダってのがいいなって思った。少女らしくない少女萌え。ロボティクスノーツのフラウやコーリャの妹エイダみたいなのが新しい萌えの文法として出てくるかもしれないな。ほわほわ系、元気系、サバサバ系、陰気系に加えて女を捨てた系の萌えが流行るかもしれない。

流れでカラマーゾフの兄弟二巻を一部読んだ。読んでもどうせ忘れてしまうのでせめて少しでも意義をと線を引いた。ノルウェイの森みたいに一気読みじゃなくてちょこちょこ読み返すのが良い楽しみ方かもしれない。二、三ページなら余裕でぶっ続けで喋り続けるこいつらを眺めてるのが面白い。崇高な意味を求めると失敗する。

以下アリョーシャのために魚スープとサクランボのジャムを注文してハイになってるイワンのセリフ。

人生という大きな杯にいったん唇をつけた以上、最後までこれを飲み干さないかぎり、ぜったい手から杯をはなさない、ってな!でもな、三十になるまでには、きっとこの杯を放り出してしまう。

せいぜい三十までがいいところだ。自分をだましだまし、なんとか『上品さの余韻』は保てるからな。

おれはそういう、おまえみたいな…見習い僧の信仰告白ってのがけっこう好きでね。

おれがドミートリーの番人だと言うならまだしも!これって、殺した弟のことを訊かれて、カインが返した答えだったな、え?おまえもたぶんそのことを考えてたんだろう?