リューコクロリディウム

中学生のときに自分がどう感じていたか忘れた。「どうしておとなはそんなにじぶんの子どものころをすっかり忘れることができるのでしょう?」ケストナー飛ぶ教室重松清の短編に出てきた引用に惹かれて買ったけど、このセリフ以上に残ったものはなかった。できれば本を読んだときは線を引いてあとで見返せるようにしておこう。思い出したいときにすぐに思い出せないと頭の色んなものがリンクするスピードが遅くなる。週一でしか勉強しないせいで同じとこばかり復習することになる塾の生徒と同じだ。どうせ全部を読み返すことなんてないんだ。映画と違ってそこだけ読み返せるんだから。そういえばもらとりあむタマ子を見た。山下敦弘監督とは東学祭で喫煙所で話した。あのときはリンダリンダリンダしか見てなかったし好きじゃなかった。キモツキさんは東学祭で見た残暑の蚊ってのが良かったっていってたけどDVD化されてない。それどころかリアリズムの宿すら新潟のTSUTAYAにはない。もらとりあむタマ子は良かった。さっきみたばかりなのにもう良かったところを思い出せない。

飛ぶ教室のようなことを田口ランディも言っていた。もう消費すら快楽じゃない彼女へ。「みんなかつては子供だったはずなのに。どうして子供の心がわからない無神経な大人になってしまったんだろう。」田口ランディ重松清は意識的にじぶんが中学生の頃を思い出しているから忘れないのかな。出来事以上に、そのときの気持ちを忘れたくなかった。

買ったまま放っておいた内藤朝雄のいじめの構造を読んでいた。頭の中に残しておきたい言葉がたくさんある。「祝祭」「群生秩序」「吸虫」。言葉が増えると考えられることが増える。「それでも、この理不尽さを言葉に表現する方法を私は持っていなかった。子供の頃、私はいつもそういう言葉にならないもどかしさの中に生きていた。」と田口ランディ。モヤっとしたものの上にモヤっとしたものを乗せても、「思う」にしかならないけど、言葉ができるとカチっカチっっとハマるので「考える」ってやつができるような気がする。本を読まなすぎだ。小説か、安いビジネス書みたいなのしか読んでない。このいじめの構造て本は難しい。難しい本には一言でわかる格言みたいなものはない。作者の考えているモヤっとしたものを作者がカチっとした言葉で表してその上にしっかり積みあがって普通わからないはずの他人の考えていることがわかる。それが本ってやつじゃん!!今更すぎる。今更すぎるぞ。漫画にも映画にもないそれが本ってやつなのに今更気付いたのか。線を引いて折り目をつけてメモを書いて本を読むのは楽しい。気付くのが遅すぎる。国語って科目が嫌いで国語教えるのも嫌いだけど、ああ国語。こういうのを読むために現代文勉強しなおす…気にはならないな。現代文ができればもっとすごい色んな思想を自分のものにできるのか。ひらけた十代みたいなことを24にして思ってしまった。まぁそれはいいや。

そんな本を読む前、もらとりあむタマ子を見た後、俺はニコ生を見ていた。なりぼうという配信者がさっちんという30~40の女を騙してみんなで楽しむ放送。散々好きだ好きだいって会いにいって帰ってきてスカイプでぼろくそに言って別れる放送。俺はなんども笑っていた。こいつ最低だなと思いながらしょっちゅう笑ってた。これが学校社会の「祝祭」に近いかもな。カメラをつけて画面に向けてキスするさっちんをキメェwwwと笑いながらみんなで楽しむ。たくさんのリスナーで集まることによってより気持ちよくなる。「みんな」のいる安全圏で。

リューコクロリディウム。カタツムリの角に寄生して無意識に光に向かわせて鳥に食わせる吸虫。放送主なりぼうはリスナーに操られている。一人じゃこんな悪いことはできない。自分で決定しているようでノリに流されている。学校の中はこんなもんじゃないよな。ポジション取りをしながら「みんな」の側につく。ノリの秩序、群生秩序を守る。違う何か。リューコクロリディウム、ノリに操られる。昨日みたオランダ対アルゼンチンのように、あいつがこう動くならおれはこう、ボールがこうきたら普通はこうするってよく全体見ながら動く。上手に動けないやつはバッシングを浴びる。いじめられる。違う秩序、ヒューマニズムをおしつけてくる先生やコメンテイターに呆れ反発する中学生と物知り顔のサッカーオタクの机上の空論にいらつくコートの中の選手は同じか。少し思い出した。中学の頃、モラルを語る先生を見て、おまえコートの中にいないくせに何言ってんだって思った記憶ある。コートの中って言葉じゃないけどそんな気持ち。とおーーーーーい外から何言ってんだこいつって。それ思い出せただけでも文章書いた意味あったな。