水木しげる出征前手帳

深く知らなければ救はれない。広く浅くでは駄目だ。

 

吾を救ふものは道徳か、哲学か、芸術か、基督教か、仏教か、而してまよふた。道徳は死に対して強くなるまでは日月がかかり、哲学は広すぎる。芸術は死に無関心である。而して基督教か仏教かな吾を救と思へり。仏教にせんと思ふ。

 

宗教には情熱があるけれども道徳にはない。だから道徳はいやだ

 

一日中の行為みな怠惰の発動さらざるはないと言い得る程、怠惰は人性を支配している。怠惰、怠惰だらけの俺

 

武良茂は嘘つきの悪人じゃ、馬鹿者だ。こんな事では自殺したつて土が喜ばぬ。生きてゐたつて空気が喜ばぬ。寝てゐては夜が喜ばぬ。死んだとて、死ぬ資格はない。地上がけがれる。幾萬と重なる罪業の負債を、生ある限りをつくして支払うならば死ぬ資格もあらう

 

基督教を信仰するに最も困難なことは神の存在である。そして最も重大なるはこの神なんだそうである。神を理解する程度に基督教を理解するとは真か、そうであるとすれば俺は救はれない。道徳と愛とが自然(カミ)と関係のある事を知らぬ、自然は盲目だと思ふから…

 

裡を満せ。外を富すな。又富んだるが如くすな。ひたすら裡を富ませ。その故に自我は否定されなければならない。如何なる事があつても、ひたすら努めはげめよ。

 

汝は言ふ。過去の怠惰をも背負ふと。可也、果し終たれば幸である、過去の罪業は罪業が罪業を生み、果てしなく無限に広まっている。之を果すは如何にしても人間業の為す所ではない。汝の現在の環境、地位、凡て罪業の然らしむ所である。罪業あつての汝である。罪業は根深くして広い。罪業は根深くして広い。みよ。汝を囲む一切は過去の罪業の蓄積である。怠惰を気づき、克服すべきを知りても人間は依然として怠惰である。「彼等は言ふだけにして行はぬなり」とか至言なり。知りて行はねば無用である。罪業、一にも二にも罪業で形造られし過去の生んだ汝は、罪業の塊である。怠惰、怠惰、怠惰で死に至るのが人間である。怠惰で生きるよりは、死ぬる方が勝っている。怠惰なる生は無意義である以上、死をかけても無為を有意とするのが人間の指名ではないか。怠惰を克服するために死すとも、怠惰と妥協して生き長らへるよりはましである。まし所ではない崇高である。

 

二十歳の水木しげるが憎んだ怠惰を俺はそれほどには憎めない、が、元々怠惰は憎むべきものだと忘れていた。甘さにも限度がある。と思っていたら、ジジイになった水木しげるのキャッチフレーズは「なまけものになりなさい」だったという。怠惰を憎む言葉の数々に打ちのめされたのに、なんじゃそりゃって感じ。成功者として何十年も生きた水木しげるジジイのこの言葉よりも、何者でもないまま死を迎えそうな若者の言葉の方が響く。でも、奥さんに「なまけものになりなさい」は誤解されやすいと言われても、水木しげるはこの言葉を言い続けたらしい。怠惰を憎むこととなまけものになるということは相反するものではないということかもしれない。ゼノンとエピクロスが割りと意気投合したように究極のところでは同じか。

無駄にストイックに生きる必要はなくて、嫌なことからは避けて、自分の好きなことに時間をかけなさいということなら、怠惰でもなく、見方よってはなまけものと言えるかも。この間受けた面接は落ちていた。クソが。人生で面接に受かった試しほぼないんじゃないか俺。社会殺すぞマジで。嫌なことは避けてなまけものとして生きる。でも怠惰とはちゃんと向き合う。

図書館で適当に手にとって借りてきたけど、案外スイスイ読めた。個人のブログを読む楽しさと同じ。成功者でない人間の言葉は響く。

水木しげるは戦争に行く前めちゃめちゃ本を読んだらしい。ただ死ぬのではなく意味付けをして死ぬ。

 

頼りにするべき教養がまだ準備できていないための、まさに苦肉の読書だったのです。一発勝負の読書でした。この読書で得るものがなければ、死ということの意味すらわからずに死ぬことになるでしょう。それを回避するためには、書物と真剣に向き合わねばなりません。荒俣宏 戦争と読書 水木しげる出征前手帳

 

戦争と読書  水木しげる出征前手記 (角川新書)

 

 

二年半ぶりに塾のバイトを

二年半ぶりに塾のバイトを、週に1〜2コマ程度やっている。この感覚、授業のあとの高揚感、塾いいじゃないかやっぱり、こういうふうに毎日生きれたらなと思う一方で、塾に就職しても、あの罪悪感、生徒に十分なものを与えられていないという罪悪感を、多くの学校教師と同じようにまた感じるのだろうと、やはり自分で開業する以外にない。それが可能になるかもしれないわずかな可能性がある、ので、そこを当てにしつつ、それとは別に明日半官半民の会社の面接結果が来る。これはまあ、クソつまんなそうな仕事だけど、福利厚生充実してるようなので、俺の切羽詰まった状況から考えれば受かったら入ったほうがいい。またこれも前回の営業と同じように、なんで俺こんなことやってるんだムードに包まれるだけかもしれないが一旦、一旦、ずーーっと無職半年くらいやってきて一個受けてみただけで、失業保険認定のためでしかないと思っていたが受かっていそうならそれはそれで受かっていてほしい。ああ。お母さんがカレーを作って、いつものように教会へ行った。歌番組を見るばあちゃんとお父さんが茶の間にいるので俺もすぐにカレーを食べに行きたい腹も減っているでも塾バイトの高揚感を残しておきたいと思ってブログを書き始めたのに大したことが書けていない。誰からも指示されず、自分の好きなように、ぬるま湯の指導を、安い月謝で出来たらいいなと、そうでないのなら塾は基本良くない。昔の生徒や今の生徒が学校で5限を受けている頃に今日俺は目覚めて、そのままオナニーをしはじめた。腐った生活であることを忘れていた。若いエネルギーに触れると俺も元気になる。腐った生活に歯止めをかけているのは彼女の存在もある気がする。いてもいなくてもいいと思っていたが、やはりいなくてはいけない気がする。無職で、スプラトゥーンを250時間ほどプレイしてS+になっただけで本も読まず映画も見ていない27歳。まずい状況だが幸運も舞い込んできている。働いていた頃よりも、「詰み」という感覚が薄くなっている。

お願い

人のツイッターのお気に入りを見て、心に来る言葉がたくさんあったり、みんくちゃんねるで素晴らしいおっぱいを見たりして、スプラトゥーンをいらいらしながらやっているよりも、いい文章に出会う方が、いい女を見る方が価値があるなと思った。いやもちろん前から気付いてるけど改めて思った。スプラトゥーンのように、手に入れたら済むっていうだけの話かもしれないけど、でもいい女は絶対に知りたい。触りたいっ!!と思える肌、ドキドキやばいからのキス、待ち合わせ遠くから歩いてくるその子を見てときめくようなデートのはじまり、そういうものを経験しないと死んでも死にきれない。美的実存。彼女に対する気持ちはあまり綴らないようにしたい。文章にすると実際の気持ちとズレが生じて、後で読み返したときにズレた文章の方に当時の気持ちをあわせてしまう。というか、地元からのアクセスの多さに少し怯えている。ので最近の記事をいくつか消した。今思ってることの20%も書けていない。もどかしい

夢の中で蘇美に会った。階段で「えー言おうかなどうしよう、お願いがあるんだけど」と言われたが邪魔が入ってその先が聞けなかった。蘇美のお願いは何だったんだろう。

 

飛田遊郭

前日の罰ゲームでなくなった右眉を気にしながら同じく前日の罰ゲームである飛田遊郭実費をこなす旅行二日目。

TNK、tc、カオルと共に夕方、最寄駅を降りて昔ながらの商店街を味わった後に飛田遊郭へ辿り着く。喫煙所で煙草を吸いながらこの通りは青春通りで、あの通りがメイン通りだなとドキドキしながら確認。各店の看板は見えるが女の子は見えない。吸い終わり、お前が先頭を行けと言われまず一軒目、衝撃だった。衝撃としか言いようがない。あとを通る皆の雰囲気がざわっ……となった。あまりにも可愛すぎる。あまりにも可愛すぎた。これが飛田遊郭。左右からババアの声、その後に綺麗な子が笑顔で手を振ってくる。全く罰ゲームじゃない。一軒目の子ほどではないにしても皆綺麗な人ばかり。綺麗な人が左右の店から手を振ってくれる。二周では一軒目の子はいなくなっていた。二周三周としながら、TNKからの早く決めろよにイラつきはじめる。tcと共に歩きながら化粧薄めの美人と、肌の綺麗な素朴そうな子で迷い、肌をとった。20分16000円だが10分以内に果ててしまった。可愛ければすぐにイケるなら時間なんて短くて構わない。大満足。事後に見かけた超絶可愛い細身の人や、角から手を振ってくれた最高にタイプな子を思い出し、そして一軒目のAランクグラドル級の衝撃を思い出し、満足より後悔が勝る。

兵庫ではカープ二連勝、大阪では飛田遊郭、交通費宿泊費無しでの関西旅行は満足だった。現在一人新幹線岐阜羽島駅明日からのスプラトゥーンを楽しみにしながらブログを書く。スプラトゥーンをやるまでは絶対に死んではいけない。生きて新潟に帰る。

ぷよm@s—少年漫画原理主義に則って

ぷよm@sをまた見ている。少年漫画の文法で熱い展開が多くて面白い。努力と才能と環境、持つものと持たざるものの戦い。皆別々の世界で生きてきて戦う。そこにドラマが生まれる。そんな話が好きなのに、現実の俺はその違いが嫌で不貞腐れている。努力をしていないからアクマのように散ることもできない。己の珠に非ざることに悲しみ暮れる趣味。

定期テストのときのように、効率を楽しんでいたときがあった。TOEICのときのように長期的に努力できたときもあった。今は何にもなれないしどこにも行けない気がして動画の毎日。

経験と歴史、思索と読書、内からと外から。前者を燃料に進める星井美希と、後者から学び溶かして自らの一部にする真や千早。皆知識を溶かしてる。俺は本読んでも何にもならんから自ら考えて生きやすい方法模索しようとしてみたり、考えても役に立たないからひたすらインプットしようとしてみたり、どうせ全部忘れるからせめて英語やろうとしてみたり、右往左往が嫌になってぼーっとネット散歩からの手しごきサイクル

自分の人生の勝ち負けだけを気にしてるから悩むのか。自分よりもっと広いもののために、美的実存ではなく倫理的実存への道が開ければ馴染めるか。結果いつか宗教的実存を目指すことになったとしても、そんで虎になったとしても、このまま怠惰に生きるよりはマシ

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遊びの時間はすぐ終わる

 金曜日昼、バナナリパブリックのシャツ、ユニクロの黒スキニー、GUのエスパドリーユ、ダニエルウェリントンの腕時計という俺の鉄板かつ唯一のコーディネートで駅まで歩く。

New OrderのAge of ConsentやChappiの水中メガネを聴きながら、これから会う推定29歳とのことを考えていた。街コンでの記憶では確か、心惹かれなかった。旅のラゴスを勧めたら長文で感想を返してくれて、会って話したいとのことだったので了承した。アークザラッド2で解決できない仕事をギルドから請け負ってしまった気分。ヂークベックから経験値をもらった時代に戻りたい。

駅で待ち合わせALLEYS NEW YORKでハンバーガーを食べ、匈奴夏目漱石田村由美7SEEDSの話をした。感情の振れ幅は0だった。

pegmapの土曜日などを聴き帰りの電車へ。ホームにいる子が皆可愛く見える。肌が綺麗な子を目で追ってしまう。俺にはもう恋とかはできないのかもしれないと思いながら家に着いた頃、お母さんより、長野なので帰りが遅くなる。飯買ってこいとのLINE。眠いので断りたかったがニートの負い目から了承。これは解決できる依頼。

従兄弟がレジをするスーパーへ。弁当3つとバニラヨーグルト、ポテトサラダをカゴに入れ、従兄弟のレジへ。従兄弟は流れるように、10年前や、15年前や、20年前と同じようにひょうひょうとした仕草で客をさばいていた。「どうもどうも」「久しぶり」「珍しいね」「ああ仕事辞めて二ヶ月だから。お使い頼まれて。(母親ネットワークで仕事辞めたこと)聞いた?」「あー…聞いたような」お互いボソボソとしゃべるので夕方のスーパーでは会話が難しい。お互い照れ屋なので会話は弾まない。会計中の、30秒程度の会話の間に後ろにはもう列ができている。忙しいときにごめんね、いえいえ、じゃ、と会話を切った。30秒でも十分すぎる。

自宅に帰り湖南みるくの動画で射精し、窓際でメビウスソフト8ミリを吸い、さみしくなったら名前を呼んでを読んだ。

「遊びの時間はすぐ終わる」p.207

「えー帰ってきてよ。ていうか、ずっといればいいじゃん。帰って来ればいいじゃん」

加賀美は娘を抱っこして言った。

「うーん。もうちょっとね」

「わかったぁ〜。今度はもうちょいゆっくり会おうね。南ジャス行こ!案内するから」

「うん」

加賀美は手こずりながら娘をチャイルドシートに乗せ、「じゃあねー!」と窓から手を振りながら走り去って行った。わたしもふざけた感じで大きく手を振ってみせる。そんで、帰って来ればと言われて「もうちょっとね」とか答えた自分の言葉を反芻した。もうちょっとって、わたしはここに、そのうち帰ってくる気でいるの?それともずっと東京とか、ここじゃない街を転々とするつもりなの?わかんない。わかんない。まだそこまでは考えてない。考えられない。

とにかくもうちょっと、時間が必要なのだ。自分には何が出来て、なにが向いていて、何をするために生まれてきたのかを、一通り試して見る時間が。そういう試みは、もう若くないと思えるようになるまで、つづけなくちゃいけない。へとへとに疲れて、飽き飽きして、自分の中の無尽蔵に思えたエネルギーが、実はただ若かっただけってことに気がつくまで、やってみなくちゃいけない。身の丈を知り、何度も何度も不安な夜をくぐり抜け、もうなにもしたくないと、心の底から思えるようになるまで。

 

俺は田舎にいながら、この主人公のように、もうちょっと、時間が必要なのだ、と思っている。

さみしくなったら名前を呼んで (幻冬舎文庫)

可愛いは正義


これは0か1かの問題で、1か100かの問題ではない。0だけはだめだ。感情の揺れ幅が0の女だけはだめだ。0か1かのハードルは意外と大きい。

「もてない男―恋愛論を超えて」 小谷野敦著 を読んで - 甘い生活

昼の12時に寝て深夜1時45分に起き、沢山の人からラインが来ていて、俺、人気者だなと気分が良くなった。この間GWの街コンで会った女(推定29歳)からも、ご飯食べに行きませんか?とラインが来ていた。最近年上の女とのやりとりが多い。いつかブログにimとして出てきた28歳、GW街コンで知り合って飯食った巨乳28歳、今日ラインがきていた29歳。最近卓球を一緒にやっている合コンで会った30歳と33歳。

性欲では、0ではない人もいるが、感情の揺れ幅では皆0。そう、感情の揺れ幅が0の女だけはだめだ。このハードルは大きい。

女とか、当分いいわ、という気持ちになっているときにsyrupさんの話聞いたり文章読んだりしていると、アツいなあ、俺にはそんな熱ねえなあと思うが、俺の周りに0しかないことも関係している。

「消費者目線で見るのをやめて、人として仲良くなろうよ」とか山田玲司言うけどさ、大事な友人にだって自分から連絡取らないくらいなのに、大事でもない人にこちらから歩み寄る気合いないよ。山田玲司の言葉に背中押されたんだったか、前の彼女には歩み寄ろうという気持ちがあった。演じてやろうという気持ちがあった。そういうのがだんだんなくなっていって別れたのかもしれない。0の子たちにあげるエネルギーがあれば、前の彼女にあげているよ。

恋愛のゴールに結婚があるこの年齢の人たちに、その相手はできない旨を伝え、軽さの世界で遊べないか交渉することが俺にできる唯一。

理想は、可愛い女がやってきて、腐った生活を共有してくれる「大学生の悲鳴」のような世界。あの子が家に来て、ゆっくりとした時間を過ごす。iggy pop fan clubでもいい。青春の中の世界、それを求めている。でもそれはヒラエス。もう存在しない。

可愛い女のいる世界での退廃。それが欲しい。将来がなくて腐ってても、それすら美しくするコペルニクス的転回力。それが可愛いは正義ということ。

なぜ可愛い女の子でなければいけないのか?syrupさんと電話したときに出た問い。人にどう見られるかが大事だからということで同意した。でも正確には、もう一人の自分にどう見られるかだ。ホテルで、他に誰もいなくても、もう一人の俺がその空間を良しとできなければいけない。可愛いは正義とは、可愛いには触れるものすべて、空間や退廃すら正義にする力があるということ。

恋愛がうまくできないから本を読んだり映画を観たりアニメを観たり音楽を聴いたりする。心を動かすのは恋愛でなくてもできる。それでも出来ないならそこに固執しなくてもいいじゃないかという声に俺はどうしても納得できない。じゃあどうして俺が今触れている創作物の大部分に恋愛が絡んでくるんだと。さんざん「良いもの」として脳髄に刻み込まれているものをどうして諦めなくてはいけないのだろうか。

「もてない男―恋愛論を超えて」 小谷野敦著 を読んで - 甘い生活

 ほんとそれ。同意の嵐。


ウラニーノ/「大学生の悲鳴」