飛田遊郭

前日の罰ゲームでなくなった右眉を気にしながら同じく前日の罰ゲームである飛田遊郭実費をこなす旅行二日目。

TNK、tc、カオルと共に夕方、最寄駅を降りて昔ながらの商店街を味わった後に飛田遊郭へ辿り着く。喫煙所で煙草を吸いながらこの通りは青春通りで、あの通りがメイン通りだなとドキドキしながら確認。各店の看板は見えるが女の子は見えない。吸い終わり、お前が先頭を行けと言われまず一軒目、衝撃だった。衝撃としか言いようがない。あとを通る皆の雰囲気がざわっ……となった。あまりにも可愛すぎる。あまりにも可愛すぎた。これが飛田遊郭。左右からババアの声、その後に綺麗な子が笑顔で手を振ってくる。全く罰ゲームじゃない。一軒目の子ほどではないにしても皆綺麗な人ばかり。綺麗な人が左右の店から手を振ってくれる。二周では一軒目の子はいなくなっていた。二周三周としながら、TNKからの早く決めろよにイラつきはじめる。tcと共に歩きながら化粧薄めの美人と、肌の綺麗な素朴そうな子で迷い、肌をとった。20分16000円だが10分以内に果ててしまった。可愛ければすぐにイケるなら時間なんて短くて構わない。大満足。事後に見かけた超絶可愛い細身の人や、角から手を振ってくれた最高にタイプな子を思い出し、そして一軒目のAランクグラドル級の衝撃を思い出し、満足より後悔が勝る。

兵庫ではカープ二連勝、大阪では飛田遊郭、交通費宿泊費無しでの関西旅行は満足だった。現在一人新幹線岐阜羽島駅明日からのスプラトゥーンを楽しみにしながらブログを書く。スプラトゥーンをやるまでは絶対に死んではいけない。生きて新潟に帰る。

ぷよm@s—少年漫画原理主義に則って

ぷよm@sをまた見ている。少年漫画の文法で熱い展開が多くて面白い。努力と才能と環境、持つものと持たざるものの戦い。皆別々の世界で生きてきて戦う。そこにドラマが生まれる。そんな話が好きなのに、現実の俺はその違いが嫌で不貞腐れている。努力をしていないからアクマのように散ることもできない。己の珠に非ざることに悲しみ暮れる趣味。

定期テストのときのように、効率を楽しんでいたときがあった。TOEICのときのように長期的に努力できたときもあった。今は何にもなれないしどこにも行けない気がして動画の毎日。

経験と歴史、思索と読書、内からと外から。前者を燃料に進める星井美希と、後者から学び溶かして自らの一部にする真や千早。皆知識を溶かしてる。俺は本読んでも何にもならんから自ら考えて生きやすい方法模索しようとしてみたり、考えても役に立たないからひたすらインプットしようとしてみたり、どうせ全部忘れるからせめて英語やろうとしてみたり、右往左往が嫌になってぼーっとネット散歩からの手しごきサイクル

自分の人生の勝ち負けだけを気にしてるから悩むのか。自分よりもっと広いもののために、美的実存ではなく倫理的実存への道が開ければ馴染めるか。結果いつか宗教的実存を目指すことになったとしても、そんで虎になったとしても、このまま怠惰に生きるよりはマシ

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遊びの時間はすぐ終わる

 金曜日昼、バナナリパブリックのシャツ、ユニクロの黒スキニー、GUのエスパドリーユ、ダニエルウェリントンの腕時計という俺の鉄板かつ唯一のコーディネートで駅まで歩く。

New OrderのAge of ConsentやChappiの水中メガネを聴きながら、これから会う推定29歳とのことを考えていた。街コンでの記憶では確か、心惹かれなかった。旅のラゴスを勧めたら長文で感想を返してくれて、会って話したいとのことだったので了承した。アークザラッド2で解決できない仕事をギルドから請け負ってしまった気分。ヂークベックから経験値をもらった時代に戻りたい。

駅で待ち合わせALLEYS NEW YORKでハンバーガーを食べ、匈奴夏目漱石田村由美7SEEDSの話をした。感情の振れ幅は0だった。

pegmapの土曜日などを聴き帰りの電車へ。ホームにいる子が皆可愛く見える。肌が綺麗な子を目で追ってしまう。俺にはもう恋とかはできないのかもしれないと思いながら家に着いた頃、お母さんより、長野なので帰りが遅くなる。飯買ってこいとのLINE。眠いので断りたかったがニートの負い目から了承。これは解決できる依頼。

従兄弟がレジをするスーパーへ。弁当3つとバニラヨーグルト、ポテトサラダをカゴに入れ、従兄弟のレジへ。従兄弟は流れるように、10年前や、15年前や、20年前と同じようにひょうひょうとした仕草で客をさばいていた。「どうもどうも」「久しぶり」「珍しいね」「ああ仕事辞めて二ヶ月だから。お使い頼まれて。(母親ネットワークで仕事辞めたこと)聞いた?」「あー…聞いたような」お互いボソボソとしゃべるので夕方のスーパーでは会話が難しい。お互い照れ屋なので会話は弾まない。会計中の、30秒程度の会話の間に後ろにはもう列ができている。忙しいときにごめんね、いえいえ、じゃ、と会話を切った。30秒でも十分すぎる。

自宅に帰り湖南みるくの動画で射精し、窓際でメビウスソフト8ミリを吸い、さみしくなったら名前を呼んでを読んだ。

「遊びの時間はすぐ終わる」p.207

「えー帰ってきてよ。ていうか、ずっといればいいじゃん。帰って来ればいいじゃん」

加賀美は娘を抱っこして言った。

「うーん。もうちょっとね」

「わかったぁ〜。今度はもうちょいゆっくり会おうね。南ジャス行こ!案内するから」

「うん」

加賀美は手こずりながら娘をチャイルドシートに乗せ、「じゃあねー!」と窓から手を振りながら走り去って行った。わたしもふざけた感じで大きく手を振ってみせる。そんで、帰って来ればと言われて「もうちょっとね」とか答えた自分の言葉を反芻した。もうちょっとって、わたしはここに、そのうち帰ってくる気でいるの?それともずっと東京とか、ここじゃない街を転々とするつもりなの?わかんない。わかんない。まだそこまでは考えてない。考えられない。

とにかくもうちょっと、時間が必要なのだ。自分には何が出来て、なにが向いていて、何をするために生まれてきたのかを、一通り試して見る時間が。そういう試みは、もう若くないと思えるようになるまで、つづけなくちゃいけない。へとへとに疲れて、飽き飽きして、自分の中の無尽蔵に思えたエネルギーが、実はただ若かっただけってことに気がつくまで、やってみなくちゃいけない。身の丈を知り、何度も何度も不安な夜をくぐり抜け、もうなにもしたくないと、心の底から思えるようになるまで。

 

俺は田舎にいながら、この主人公のように、もうちょっと、時間が必要なのだ、と思っている。

さみしくなったら名前を呼んで (幻冬舎文庫)

可愛いは正義


これは0か1かの問題で、1か100かの問題ではない。0だけはだめだ。感情の揺れ幅が0の女だけはだめだ。0か1かのハードルは意外と大きい。

「もてない男―恋愛論を超えて」 小谷野敦著 を読んで - 甘い生活

昼の12時に寝て深夜1時45分に起き、沢山の人からラインが来ていて、俺、人気者だなと気分が良くなった。この間GWの街コンで会った女(推定29歳)からも、ご飯食べに行きませんか?とラインが来ていた。最近年上の女とのやりとりが多い。いつかブログにimとして出てきた28歳、GW街コンで知り合って飯食った巨乳28歳、今日ラインがきていた29歳。最近卓球を一緒にやっている合コンで会った30歳と33歳。

性欲では、0ではない人もいるが、感情の揺れ幅では皆0。そう、感情の揺れ幅が0の女だけはだめだ。このハードルは大きい。

女とか、当分いいわ、という気持ちになっているときにsyrupさんの話聞いたり文章読んだりしていると、アツいなあ、俺にはそんな熱ねえなあと思うが、俺の周りに0しかないことも関係している。

「消費者目線で見るのをやめて、人として仲良くなろうよ」とか山田玲司言うけどさ、大事な友人にだって自分から連絡取らないくらいなのに、大事でもない人にこちらから歩み寄る気合いないよ。山田玲司の言葉に背中押されたんだったか、前の彼女には歩み寄ろうという気持ちがあった。演じてやろうという気持ちがあった。そういうのがだんだんなくなっていって別れたのかもしれない。0の子たちにあげるエネルギーがあれば、前の彼女にあげているよ。

恋愛のゴールに結婚があるこの年齢の人たちに、その相手はできない旨を伝え、軽さの世界で遊べないか交渉することが俺にできる唯一。

理想は、可愛い女がやってきて、腐った生活を共有してくれる「大学生の悲鳴」のような世界。あの子が家に来て、ゆっくりとした時間を過ごす。iggy pop fan clubでもいい。青春の中の世界、それを求めている。でもそれはヒラエス。もう存在しない。

可愛い女のいる世界での退廃。それが欲しい。将来がなくて腐ってても、それすら美しくするコペルニクス的転回力。それが可愛いは正義ということ。

なぜ可愛い女の子でなければいけないのか?syrupさんと電話したときに出た問い。人にどう見られるかが大事だからということで同意した。でも正確には、もう一人の自分にどう見られるかだ。ホテルで、他に誰もいなくても、もう一人の俺がその空間を良しとできなければいけない。可愛いは正義とは、可愛いには触れるものすべて、空間や退廃すら正義にする力があるということ。

恋愛がうまくできないから本を読んだり映画を観たりアニメを観たり音楽を聴いたりする。心を動かすのは恋愛でなくてもできる。それでも出来ないならそこに固執しなくてもいいじゃないかという声に俺はどうしても納得できない。じゃあどうして俺が今触れている創作物の大部分に恋愛が絡んでくるんだと。さんざん「良いもの」として脳髄に刻み込まれているものをどうして諦めなくてはいけないのだろうか。

「もてない男―恋愛論を超えて」 小谷野敦著 を読んで - 甘い生活

 ほんとそれ。同意の嵐。


ウラニーノ/「大学生の悲鳴」

映画『何者』27歳ニートからすれば全員すごい

山田孝之の「そんな見られらくねえんなら自分ちで書けよ」「確かにあいつ前髪ながすぎんな」とか菅田将暉の酔い演技とか、山田孝之菅田将暉の演技を見てるだけで面白い。菅田将暉ピンクとグレーとか、ディストラクションベイビーズとか、どれもいい演技してるのに、あまり名作に当たれてないんじゃないか。とりあえず菅田将暉出てるなら見に行く気になる。佐藤健の、喉からも声が出ないときの(はい)とか(ありがとう)も良かった。こういうやつはマルメラ吸ってるよなわかる

男に対しての「あの子」って言い方とか、痛々しさが辛い。前に進んでるやつがきつい、のはよくわかる。うぜえよな、誰でもできるようなことをよ、だれでもできるわけじゃないのはわかってるからこそ、ぐうううううううってなるね

ぴりぴりぴり!!って怖いのに、そのあとのわかりやすさで台無しになるところが多かった。テーマと役者は100点だけど脚本が惜しい。自然さが欲しかった。桐島級の、横道級のど名作になり得た。ただ、100点じゃなくてもいいのよね、10点20点でもいいなら出しなよ!って有村架純も言ってるもんね。

分析的毒舌で笑わせる、ネットストーカーのタクト。くそうぜえと思ってたけどこれ俺やないかい。夢のENDはいつも目覚ましばりに同意 

二階堂ふみ「どうせたまに読み返したりしてるんでしょ?」うるせえよ!!ツイッターの鍵かけない理由とか、観察者として笑ってる云々はもう、ちょっと、きつい。すごい二階堂ふみめっちゃ、刺してきやがるけどそれくらい許してくれよ。

10分くらい見ては妄想のためにストップを繰り返してた。大学生活をもう一度やり直したら、どうしようかなと、色々勉強してまた一年からやり直して、無限に…

一回しかない人生で飛べるやつは凄いですわ

何者

白い都のヤスミンカ

 

「嘘つきアーニャの真っ赤な嘘」の三遍目「白い都のヤスミンカ」を読み始める。冒頭ベオグラードについて話すヤスミンカ。

ローマ帝国の版図が広がって行く中で、次第にドナウ河がその北限の役割を果たすようになっていきます。ドナウ河を挟んで、ローマ帝国は異民族と対峙したのです。そのため河に沿って、いくつもの要塞が築かれていきました。ドナウ河とサヴァ河が合流する地点を見下ろす丘の上に建設されたのが、シンギドゥムという名の要塞都市です。バルカン半島の交通、戦略上の要衝として広く古代社会に知れ渡っていたようで…」一旦本を閉じ、GeaCronを開きローマ帝国の年代ごとの領土を調べて、三年ぶりくらいにmanaveeの可愛いカレン先生の動画を見直し、マクニールの世界史を3ページくらい読んだ。

旅のラゴスの影響か、一瞬知識欲が刺激されて歴史を調べることが増えた。聞きなれない言葉(フェニキュア人、アナトリア半島など)をいちいち調べるググり連鎖に疲れまたヤスミンカに戻る。知識欲だけが落ち着き、知識は少ししか増えない。

「白い都のヤスミンカ」を読み終えて、そのあとに米原万里が東欧諸国を訪ねるドキュメンタリーを見つけた。1992年撮影のドキュメンタリー。2001年に「アーニャ」出版。「アーニャ」の中の再会はすべて撮影されていたのか。本の中ではそんなことまったく書かれていなかった。米原万里は肩パッドのようなものをしていて平野ノラに見えて滑稽だった。本の中のように感傷的には見えなかった。喋りが演技っぽくて、再会もなんか地味だし「アーニャ」の中を真実と思って読んでたからか、ドキュメンタリー見てがっかりした。「アーニャ」の中でミランクンデラの名前が出てきて、存在の耐えられない軽さの中でサビナが

「サビナにとっては真実に生きるということ、自分にも他人にも偽らないということは、観客無しに生きるという前提でのみ可能となる。我々の行動を誰かが注目している時には、望むと望まないとにかかわらず、その目を意識せざるを得ず、やっていることの何一つとして真実ではなくなる。観客を持ったり、観客を意識することは嘘の中で生きることを意味する。サビナは著者が自分や自分の友人のあらゆるプライバシーをあからさまにする文学というものを断固として拒絶する。自分のプライバシーを失うものは、すべてを失うと、サビナは考える。そして、それを自分の意思で放棄するものは異常である。そこでサビナは自分の恋を隠さねばならないことを苦にはしない。逆に、そうしてのみ「真実に生きる」ことができるのである。」

と言っていたのを思い出した。「アーニャ」は書かれたもので、観客の目を意識してるから真実ではない。米原万里とヤスミンカの再会もカメラに撮られて、観客を意識しちゃってるからこれも真実ではない。カメラがなくてもやはり誰かに向けて演技してる状況が普通だし、そしたらもう、何が真実?みたいな感じで、なんか書くの面倒だな、まとまらないんだから適当でいいんだけど、ちゃんとまとめて書こうとしてる時点で俺も観客意識のからくり心働いちゃってるし、難しい

自分の知らない文化、ユーゴスラビアとか、理解するのはもう、米原万里みたいに海外で過ごした経験とか、言語とか、わかってたほうがずっといいし、それどころか歴史も全然勉強してこなかった俺に今更そっち理解するの無理だし、ちゃんと勉強してきた人ですら歴史の全部知るの無理だし、旅のラゴスラゴスでさえ地球の歴史知るのに数年かかってるし、ていうかラゴス凄くないか10年以上かかったとはいえ別の星の文化一通り身につけてるし、そりゃモテるわなって感じなんだけど、俺は黙ってもういっそ、近くの文化だけで満足して、海外とかそっち無視して、それどころか東京の文化も無視して三条新聞だけ読むローカルジジイか、ジモティー愛に生きるのがいいのかもしれないけどそっちの道ももう絶たれてるし、生き辛い。

カレン先生が可愛い

www.youtube.com

 

嘘つきアーニャの真っ赤な真実 (角川文庫)

嘘つきアーニャの真っ赤な真実 (角川文庫)

 

 

旅のラゴス

 

スカシウマ?ミドリウシ?ビタハコベ?リゴンドラ?はじめの1ページで知らねえ言葉出て来すぎだよいちいち覚えんのかこれ。「集団転移」の章は雰囲気あったけど「たまご道」まで読んで、この調子でキノの旅みたいに色んな街の放浪記続くんじゃ辛いなと放置。評判良いらしいけど俺には合わないかな、などと思って「銀鉱」から再読したらだんだん面白くなって来た。しかしこれ女めっちゃ寄ってくんな。さらに知識無双。また女寄ってきて知識無双。村上春樹か?筒井康隆ロリコンジジイか。たまらん。

4ヶ月後、おれは歴史と伝記に読み耽っていた。年代を追って史書を読み、核時代への理解を深めるため、それぞれの時代における重要人物の伝記はその時代の歴史に平行して読むという方法が、なんとぜいたくな、そして愉悦に満ちたものであったかは、かくも大量の書物に取り囲まれているおれにしかわからず、実際おれにしか体験できぬものであったろう。それは歴史理解のもっとも効果的な方法であったとおれは確信している。それにしてもかの星における歴史は長く、複雑でもあった。いつ読み終えるかもしれぬそれらの歴史をおれは散歩する暇さえ惜しんで読み続けた。といっても、焦燥とは無縁だった。かくも膨大な歴史の時間に比べればおれの一生の時間など焦ろうが怠けようがどうせ微々たるものに過ぎないことが、おれにはわかってきたからである。人間はただその一生のうち、自分にもっとも適していてもっともやりたいと思うことに可能な限りの時間を充てさえすればそれでいい筈だ。
歴史と伝記に関する書物を読み終えるのに約一年かかった。読み終えたときはふたたび秋になっていたからだ。本来ならば歴史を学びつつ各時代に書かれた文学も併読すべきであったかもしれない。歴史への理解の度はより深まったのかもしれないのだが、おれはことさらにそれを避けた。あまりにも愉悦が大きすぎるような気がして自らが不安だったからである。

ここらへんが面白かった。「王国への道」の章

焦燥とは無縁だった。かくも厖大な歴史の時間に比べればおれの一生の時間など焦ろうが怠けようがどうせ微々たるものにすぎないことが、おれにはわかってきたからである。人間はただその一生のうち、自分に最も適していて最もやりたいと思うことに可能な限りの時間を充てさえすればそれでいい筈だ。

しかしどんだけデーデ、好きなんだよ。ラウラ、カカラニ、ニキタのことも思い出してやれよ

めちゃめちゃ面白かったんだけど、全く表現できないな

書評がたくさんネットにあるので、あーあそこ良かったよなーうんうんってたくさんできるのがいい

旅のラゴス (新潮文庫)

旅のラゴス (新潮文庫)